(127)倭讃が王城を南遷したねらい

4世紀末の北東アジア(Wikipedia) 倭讃が『書紀』のオホササギ大王(仁徳)とすると、崩年と没齢がほぼ確定できる第29代ヒロニワ大王(欽明)からさかのぼった在位期間は西暦382年から425年です。『書紀』が伝える没齢110歳が春耕秋収…

(126)高句麗の支配から脱けた証

の 鴨緑江(Wipedia) 高倭戦争をオサライしておきます。 庚子年(400)の第1次高倭戦争の発端は、百済が倭と通好したことでした。「誓約を破ったではないか」と好太王が怒って百済討伐の軍を興したとき、金城を倭の軍兵が占拠したという新羅の急…

(125)倭人は不動産に興味なし

フェニキア人の船(模型) 「倭の五王」はヤマト王権の王ではなく、朝鮮半島・栄山江流域と筑紫平野をテリトリーとした「倭國」の王とするのが合理的です。その上で想像を逞しくすると、次のような展開が想定されます。想像と推測ですから、根拠レスであるこ…

(124)倭讃は國王と認められていない

『宋書』列伝五十七 『宋書』に戻ります。 『宋書』は「倭讃」について最後まで「倭國王」と認めていません。「可賜除叙」とあるので、晋帝国が与えた叙位を除かれたことは分かります。しかし宋帝国としてどのような叙爵を行ったのか、『宋書』は伝えていま…

(123)関東以西を統一した最初の王

泊瀬朝倉宮跡伝承地 親子・兄弟関係、王名と生存時期が一致しないばかりでなく、『書紀』にはヤマト王統の大王が漢字1文字の名で朝貢したことも、宋帝国から下賜された叙爵の記事も出ていません。そこで「倭の五王」はヤマト王統の王ではないのではないか、…

(122)いかにも恣意的な比定

倭の五王:日本書紀と宋書 『宋書』に登場する5人の倭王(讃・珍・済・興・武)、いわゆる「倭の五王」が『書紀』の歴代大王の誰に当たるか――が長年のテーマでした。教科書日本史は「5人目の武王は第21代雄略天皇であることはほぼ間違いない」としていま…

(121)倭國王讃は叙爵されたか

高句麗・長寿王が宋に献上した赭白馬 前節からの続き。 『三國志』は倭地における邪馬壹國を盟主とする邑国連合を「倭國」としていました。倭国の王統に対して魏帝国が「親魏倭王」の金印紫綬を下賜することで正統性を担保し、卑彌呼女王の跡を継いだ男王、…

(120)『晉書』に見える「東倭」とは

真多呂人形「東宮立雛セット」 『宋書』の「高祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」は、421年に劉裕が帝位に就いたことを慶賀する使節団を送ってきた、というものです。この記事について、あまり論じられていないのは「倭讃」と「賜除授」(除授…

(119)『書紀』の記事は煮え切らない

劉裕が樹てた宋(Wikipedia) 『書紀』の信憑性に関連して、『三國史記』も好太王碑文に記録される高倭戦争を伝えていない、という指摘があります。どっちもどっち、というのですが、編纂時期が大きく違います。 『三國史記』が編纂されたのは事件…

(118)庚子高倭戦争の前と後

安羅神社(滋賀県草津市穴村町) 西暦391年から404年まで足掛け14年間にわたる高句麗と倭(ないし倭国)の戦いは、庚子年(400)の決戦(庚子高倭戦争)がクライマックスでした。好太王は「歩騎五萬」を繰り出して、倭を「任那加羅」まで追い詰め…

(117)でもリアリティがないんだよね

武内宿禰の肖像紙幣(明治22年) 『日本書紀』は、4世紀末から5世紀の初めにかけて、高句麗と戦ったことを一切伝えていません。代わりに記録しているのは新羅、百済とイザコザがあったことです。 前に書いたことですが、『三國史記』と照合すると、この…

(116)高句麗と戦った意味は何か

「スパルタクスの最期」(Hermann Vogel) わたしたち昭和二十年代生まれの世代が小中高校で学んだ教科書日本史は、 ①朝鮮半島の南端に大和朝廷の領地と出先機関があって、大和朝廷はそこを通じて新羅や百済と国交を結んでいた ②大和朝廷は少なくとも4世紀…

(115)洛東江があるじゃないか

洛東江(Wikipedia) 人口規模がほぼ拮抗していたけれど、動員できる軍兵の数に倍以上の差があった――5万人対2万人というのは本稿の仮定で、推測・空想の域を出ませんが――のは、誤解を恐れずに言えば、騎馬民族と農耕民族の違いです。 騎馬民族は…

(114)5世紀高句麗は105万人

光州月桂洞1号墳(韓国光州広域市) 好太王碑文や『三國史記』が示すように、5世紀の東夷世界で高句麗國は最強の軍事国家でした。紀元前の早い時期から華夏帝国を苦しめた匈奴族、その一支族である鮮卑族と苛烈な生存競争を繰り広げてきただけに、歩兵と騎…

(113)クライマックスは「倭潰城」

順天倭城の石垣 高句麗國第20代長寿王が実父である第19代好太王の顕彰碑を建てたのは、もちろん好太王が領土を広げたからです。しかし、もう一つのねらいはその正統な後継者である自身の権威を誇ることでした。韓地の3族(百済、新羅、倭人)を屈服させ…