古代探訪

(200:END)歴史修正の要因は天武朝の事情

釈迦三尊像(法隆寺) この連載は今回でENDにするので、ちょっと(というかかなり)端折ります。 隋の遣俀使・裴世清は「秦王國」まで行って、俀國で男王「阿毎多利思北孤」と会った、と言っています。そこで、『書紀』の編者たちは俀王に相当する人物を…

(199)ちゃんと「王国」と書いてある

阿蘇山(LINEトラベル) 俀王の姓はアモ/アボ(本稿は「アベ」説)、字(名)はタリシホコ、号はアハキミというところからスタートしなければなりません。 『隋書』東夷伝「俀國」条によると、王は男性で「阿輩雞彌」と呼ばれ、「妻號雞彌後宮有女六七百人…

(198)ほとんど"捏造"に近い忖度

済州島と半島九州島の位置関係 この連載は200回で終わりにするつもりなので、残されているのはあと3回です。そこで今回は倭國史"最後の謎"である厩戸王ないし『隋書』の「俀王姓阿每字多利思北孤號阿輩雞彌」に迫ります。 倭國の王統史は二重三重、場…

(197)手に負えない多重の歴史修正

「三国遺事」梵魚寺本(東亜日報) 『書紀』は「任那王己能末多干岐」がオホド王23年旧暦4月にやってきて、任那の窮状を訴えてすぐ帰ったとしています。救援を求めて国王が直にやってくるのも異常ですし、大伴金村に 「……と天皇さまにお伝えください。ヨ…

(195)6世紀前半最大の課題は半島情勢

欽明天皇の磯城嶋金刺宮跡伝承地 ヤマト王統第29代大王ヒロニワ(天国排開広庭:欽明)のとき、倭・済連合が形を変えて復活したと推測する理由は、木刕満致の後裔・蘇我稲目、筑紫王族の安倍大麻呂(いずれも「かもしれない」ですが)が政権中枢に躍進した…

(194)蘇我・阿倍臣と倭・済連合の復活

帝王の娘スベクヒャン(チャンネル銀河) 越王家オホド政権(オホド、マガリ、タカタの3代)の終焉に連鎖して起こったのは、物部麁鹿火の失脚と物部宗本家の復活だけではありませんでした。のちの推古天皇や聖徳太子、天智・天武天皇と称されるヤマト王統に…

(193)ヒロニワ大王の即位は何年か

西殿塚古墳(手白香皇女衾田陵:天理市) 筑紫の葛子王から見ると、父の仇である物部麁鹿火は、第28代大王タカタ(檜隈高田/武小広国押盾:宣化)元年の旧暦7月に亡くなったことになっています。歴代大王在位年表に従うと西暦536に当たります。 一方…

(192)背景に物部宗本家の家督争い

気比大社(じゃらん) 『書紀』はオビト王(聖武)を無事に即位させるために、藤原一族が総力をあげてバックアップしました。そのため、対抗氏族の所伝は藤原氏に有利なように編集・改竄されていると考えられています。 なかでも物部氏は、第1王朝(三輪王…

(191)その後の麁鹿火はどうなった?

大伴金村(Wikipediaから) 筑紫王家から離れて、「磐井の乱」を鎮圧した物部麁鹿火の"その後"を見ることにします。豊・火二國を巻き込んだ大乱を起こした天下の大罪人(筑紫王家)は存続しましたが、それを鎮圧した麁鹿火は、第28代タカタ王(宣化)元…

(190)音韻からも「アヘ」説に一票

退陣を発表した安倍晋三首相(8月28日:TBS「Nスタ」から) 筑紫磐井の王統=倭國王家の姓が「アヘ」または「アベ」だったのではないか、という傍証は、福岡県福津市、安曇一族の墳墓がある奴山の南約1kmにある宮地嶽神社の所伝です。 同社のホー…

(189)津軽十三湊と松浦党の結びつき

十三湊(青森県五所川原市) オホヒコを始祖とする氏族には、筑紫國造のほか、阿倍臣、伊賀臣、阿閇臣、膳臣などがいます。埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣(国宝)にある「乎獲居臣」も「上祖名意富比垝」と自称しています。 すると、武蔵…

(188)阿毎は「アメ」音の写しか

大彦命を主祭神とする敢國神社(伊賀市) 筑紫王家の子孫追跡の続きです。といいながら、『書紀』が記す筑紫國造の始祖から話を始めます。 『書紀』は筑紫國造の始祖はオホヒコ(大彦/『古事記』は「大毘古」)としています。第8代クニクル(大日本根子彦…

(187)筑紫王家の末裔を追跡する

岩戸山古墳の石人(岩戸山歴史文化交流館) 「磐井の乱」を鎮圧した物部麁鹿火の"その後"が気になるところですが、今回は筑紫王家と越王家についてです。 まず筑紫王家ですが、磐井が物部麁鹿火に斬殺されたあとのこととして、『書紀』オホド王廿二年条は…

(186)筑紫の由来または金印紫綬

「筑紫」発祥の地と伝わる筑紫宮(筑紫野市:Wikipediaから) オホド王と磐井の乱にかかわって、筑紫の話柄が続きます。本節では「筑紫」の名の由来を取り上げます。 『書紀』は全30巻のうち「筑紫」の文字が登場しないのは4巻しかありません。初出は巻第…

(185)倭済連合の5代を復元する

武寧王墓誌(韓国:国立公州博物館) 古代北東アジアで「倭國」と呼ばれたのは、いわゆる「筑紫」地方で、528年に滅ぼされた筑紫君磐井は倭國王だったというのが本稿の仮説です。ひょっとすると倭と百済は、ときの状況に合わせて同じ王を共立する関係にあ…

(184)物部麁鹿火の刺客が謀殺した?

物部麁鹿火(菊池容斎画:Wikipediaから) 「筑紫君磐井の乱」はなかった、とする見解は、『筑後國風土記』に「雄大迹の天皇の世に(中略)俄にして官軍動發りて」とあることに依っています。官軍はヤマト王権の軍兵のことですから、ヤマト王権軍が奇襲攻撃…

(183)諸国の王が醸した緊迫の時

雲部車塚古墳(丹波市商工会) 6世紀初頭、ヤマト王権の男系王統が途切れ、女王の統治下で軍事的統率力が弱まった――として(仮定1)、息長氏と大伴、物部、許勢といった在郷氏族が越王家の王を共立した(仮定2)、しかし越陣営は大和陣営を圧倒する軍事力…

(182)一定しないオホド大王の没年

雷丘(奈良県明日香村) 第25代ワカササギ大王(小泊瀬稚鷦鷯:武烈)の「絶無繼嗣」で播磨王家が絶えたのが西暦506年の12月、群臣が協議して越の三国から「枝孫」(分家の分家)のオホド王(男大迹:継体)を第26代大王に迎えたのが507年の1月…

(181)武寧王が倭済連合の盟主という幻想

武寧王陵(大韓民国忠清南道公州市) 本節で取り上げるのは、百済の第25代武寧王(斯摩王)のことです。史料的な裏付けや傍証はないのですが、筆者はひょっとすると、この人物が倭王武と筑紫君磐井の間を埋める王で、一時的であれ倭済連合の盟主だったかも…

(179)『三國史記』は倭地動乱を語らず

武寧王陵出土の金銅製耳飾り(KOREA.net) 本稿が「磐井の乱」がなかったと考える理由の一つは、『三國史記』です。磐井に賄賂を送ってヤマト王権軍の渡海阻止をそそのかしたとされる新羅について、新羅本紀の記述を見てみましょう。 『書紀』が「磐井挙兵」…

(178)日本天皇及皇子倶崩薨の理解

装飾壁画古墳の分布状況 『書紀』は磐井の乱のエリアを「掩據火豐二國」と記しています。なぜ筑紫(竹斯)が反乱のエリアに入っていないのかというと、そもそも筑紫が磐井王の本拠だからでしょう。磐井王に呼応して兵を挙げたのが「火豐二國」の在郷氏族だっ…

(177)経済構造の変化ないし相違

朝妻津(Wikipediaから) 本家の筑紫王家が分家筋のヤマト王家の奇襲を受け、磐井王が斬殺され、後嗣の葛子は服従を誓わざるを得なかった。以後、筑紫王家はヤマト王家の傀儡として外交の窓口を果たすことになった。それが527~28年の政変では…

(176)「磐井の乱」をどう見るか

岩戸山古墳の石像群(Bulletin Archive) 6世紀前半の倭地に起こったもう一つの大事件は、いわゆる「磐井の乱」です。『書紀』はオホド(男大迹)紀廿一年夏六月条に筑紫國造磐井の挙兵を記し、翌廿二年冬十一月条に磐井の斬殺と乱の鎮圧、その息子・葛子の…

(175)倭王権が内向きに転じた事情

傍丘磐坏丘北陵(伝武烈天皇陵:奈良県香芝市) これまでの話と一部が重複します。 6世紀初頭から前半にかけて、倭地には大事件が起こっていました。その第1は王統の交代と混乱、第2は筑紫君磐井の滅亡、第3は朝鮮半島南部(伽耶地域)における倭王権の…

(174)「日本中央」の石碑が語るもの

日本中央の碑(青森県東北町) 『梁書』諸夷伝に登場する「文身國」は、倭國の東北七千余里ということから、倭国を筑紫と見れば出雲地方から東、奈良盆地を起点とすれば糸魚川―浜松の中央地溝帯以東ということになります。 また「大漢國」については、華夏の…

(173)5世紀に仏教伝来の合理性

南無仏太子像(上半身部:奈良国立博物館) 教科書日本史では、仏教は百済から西暦53 8年に伝えられたとされています。小学生だったころ、「仏教伝来ゴミ屋さん」の語呂合わせで覚えたものでした。 調べると538年説は、奈良時代中葉の天平十九年(74…

(172)永元元年、沙門慧深によると

漢代の石像にある「扶桑樹」(日本財団図書館) 今回は本稿にあっては余談に属します。《倭人の肖像》に付随する周辺情報であって、倭人と倭国、倭王権の考察に直接結びつくものではありません。「文身國」は倭人の黥・文身の習俗と関連しますが、「扶桑國」…

(171)『梁書』は研究の俎上に乗っていない

愛媛県指定文化財「扶桑木」(伊予市森海岸) 5世紀の倭国ないし倭地に仏教が伝わっていたことを記しているのは『梁書』です。倭もしくは倭国については、武帝紀の天監元年条に「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」のほか目新しい情報がないので、研究の俎上…

(169)倭王権に生じた50年の空白

継体天皇像(足羽山:福井市) 5世紀の倭王権が目指したのは、まず倭人の習俗を華夏の風に改め、次にミニ中華世界を築くことでした。それは「蛮夷の族」から脱することを意味していました。明治政府が目指した脱亜親欧路線、第2次大戦後の日本が目指した脱…

(168)『宋書』が記す倭國の「遣宋使」

於鹿鳴館貴婦人慈善会之図 (揚洲周延筆) 倭讃ないしその先代が、はじめは内心で、やがて明瞭に表明するようになった「われわれは蛮夷の族ではない」という思いは、おそらく新羅や百済と対等であろうとし、高句麗より上位に立ちたいという気持ちのためでし…