巻之三《薄靡》 幌馬車は西部を目指す

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コネストーガ幌馬車(再現図):Wikipedia

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【補注】

メイフラワー号 イギリスのサザンプトン港から太平洋を越えたのは「ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)」と呼ばれるキリスト教の一派だった。乗客102人、乗組員27人の計129人で、うち47人が「ピューリタン(Puritan=清教徒)」を名乗っていた。通説によると「最初に上陸したのはボストン郊外のプリマスだった」とされるが、 実際はのちに「プロビンスタウン」と名づけられる海岸であって、そこは生活に適していなかった。たまたま乗組員が探検家のジョン・スミスが作成した地図を持っていた。その地図に示された定住の場所がプリマスだった。プリマス港には現在もアメリカ国旗と並んでイギリスのユニオンジャックが掲揚されている。

七年戦争 イザベル女王の死とともにスペインは「神聖ローマ帝国」を名乗ってヨーロッパ全土の宗主国的存在となり、形式上その家臣となったイギリス国王とフランス国王が「筆頭」を争うことになった。紛争の火種はオーストリアの王位継承とインドの領有をめぐるいさかいであって、イギリスはプロシアと同盟を結び、フランスはロシア、オーストリアと連合した。1756年7月に始まった戦いはイギリスの優勢で推移し、一七六三年の二月、フランス=オーストリア連合が敗北を認めるかたちで終結した。結果としてフランスは インドとカナダの領有権を失った。本来はイギリスとフランスの争いだったが、戦勝国プロシアのフリードリッヒ大王がパリを一時占拠したことから、フランスはプロシアに根強い恨みを抱くことになった。このことが後の第1次大戦、第2次大戦まで尾を引いた。北米アメリカ13州の対英独立戦争でフランスが13州を支援してイ ギリスに宣戦を布告したのも七年戦争の意趣返しだった。

白蓮教 仏教の阿弥陀信仰を初源とし、12世紀中葉に天台宗から分かれて思想集団的性格を強めた。江南地方を拠点に勢力を蓄え、1351年、元王朝に反抗して挙兵し、明王朝成立のきっかけを作った。蒙古族を追い出し漢民族の国家を復活させようという「滅満興漢」を合言葉に、「漢」を意味する赤色をもって標としたことから「紅巾の乱」と称される。 明王朝を開いた朱元璋も白連教団に属していたが、天下を握ると教団に弾圧を加えたため一時的に沈静化した。清王朝末期に至っては「反清復明」「打富済貧」「官逼民変」「替天行仁」を唱え、1774年に山東で挙兵したほか、西欧列強の植民地支配が強まった19世紀以後は「扶清滅洋」に転換した。義和団も白蓮教団の流れを汲んでいる。

紅茶投棄事件 いわゆる「ボストン・ティー・パーティ」以来、アメリカ合衆国の独立推進派はイギリス風を嫌って紅茶を飲まず、フランスから輸入したコーヒーを飲むようになったといわれる。第二次大戦でパリを開放したアメリカ軍の中に「ラファイエットさん、恩返しにきたぜ」というジョークが流行ったのは、独立戦争のときのフランスの支援を指している。

マニフェスト・ディスティニー アメリカ合衆国の西部開拓は太平洋岸に到達しただけで終らなかった。ハワイ、フィリピン、グアムなど太平洋諸島を手中に収め、植民地政策が不可となった20世紀後半に入っては軍事同盟をテコに朝鮮、ベトナム、ラオス、カンボジア、パキスタン、イラン、イラクと触手を伸ばしている。

ゴヤスレイ Goyathlay/1825?~1909。原意は「あくびをする人」。歴史家のアルビン・ジョゼフィは、「インディアン・ゲリラ戦士の中で最も優れた〝最後の志士〟であった」と評している。

アメリカ・インディアンと騎兵隊の最後の戦い 1890年12月29日、中西部のサウスダコタ州のウーンディッド・ニー(Wounded Knee=傷ついたひざ)で行われた。「ビッグ・フット」と呼ばれた酋長が率いるスー族は勇敢に戦ったが、最後に女性・子供を含む300人が騎兵隊に包囲された。彼らは降服を申し入れたが騎兵隊は許さず、全員を 虐殺した。

アラモの砦事件 テキサス州サン・アントニオ市郊外にあったキリスト教会が砦となった。メキシコ軍は3月6日にアラモを陥落させたが、4月21日に行われたサン・ジャシントの戦いで約800の独立軍に大敗し、サンタ・アンナ将軍は捕虜になってしまった。このとき独立軍を率いた将軍の名(サム・ヒューストン)は、現在、テキサス州の州都の名として残っている。

トーマス・ニューコメン Thomas Newcomen/1663~1729。蒸気を使って動力を得る方法は、1690年にフランスのパパン(Denis Papin)が論文『動力を安価に得る方法』で理論を示し、その8年後にイギリスのトーマス・セーヴァリ(Thomas Savery)が蒸気力利用の揚水装置を作っている。ニューコメンが開発したのはシリンダーとピストンを 組合せる方法で、1分間に1回の割で動作し46mの地下から水を汲み上げることができた。ところがこの機関は大量の石炭を必要とした。石炭を採掘するのに石炭を燃やさねばならず、その石炭を運ぶために馬を飼わなければならなかった。このために「鉱山の儲けを馬が食ってしまう」という冗談が流行した。

最初の蒸気機関 初期の蒸気機関の出力は15馬力程度だったとされる。ちなみにジェームズ・ワット(1736~1819)はスコットランドのストラスクライド州にある港町グリノックの船大工の家に生まれた。少年期から手先が器用で父の仕事場で働いた。1757年に科学機器の製造業の開業をめざしたが、ギルド(職業組合)の反対にあって実現 しなかった。ワットにニューメコン機関の模型の修理を頼んだのは、グラスゴー大学のアンダーソン教授だった。

イギリスの紡績業 1764年に織布工のハーグリーブズが、ハンドルを手で回すだけで、たくさんの糸を紡ぐことができる紡績機を考案した。ついで、カツラ商人のアークライトが時計工の助けを借りて水力紡績機を発明、織布工のクロンプトンがミュール紡績機を作った。 こうした機械装置にワットが改良した蒸気機関が取り付けられ、次いでカートライトが人力以外の動力で布を織る動力織機を発明した。こうして、それまでの人力や水力に代わって、石炭を燃やす蒸気機関による新しい機械を備えた工場に、多くの労働者を集めて大量の綿織物を生産するようになった。

クロード・ダバン Claude-Francois-Dorothee Jouffroy d'Abbans/彼が製作した蒸気船は蒸気機関でスクリューを回転させる方式だったが、動き始めてから15分でバラバラになってしまったという。

ジェームズ・ラムゼー James Rumsey/ワシントンD.Cのポトマック河畔で蒸気船を動かすことに成功した。ラムゼーの蒸気船は蒸気機関で動くポンプが勢いよく水を噴射することで推力を得るジェット方式だった。「ジェームズ・ラムゼー歴史博物館」がある。

ジョン・フィッチ John Fitch/フィッチの蒸気船は船体 に取り付けられた12本の垂直オールが水を掻く方式だった。のちにデラウェア川で客船として運行された。フィッチはそのために会社を設立したが半年後に倒産してしまった。

蒸気機関車 最初の発明者はリチャード・トレイビシックである。彼は蒸気機関から得られる回転運動を車輪の動力にすることを思いついた。1804年にトレイビシックが発明した最初の蒸気機関は非常に大きく重いものだった。そこで彼は蒸気を高圧にする工夫を施し小型・軽量化することに成功した。その結果、熱効率が大幅に改善された。ところが、レールが鋳鉄製だったために、蒸気機関車の重量に耐えることができなかった。スチーブンソンはトレイビシックのアイデアを受け継ぎ1914年、自分の工場で蒸気機関車「ブルッヒャー」号を製作した。改良に改良を重ねた実用機「ロケット」号がレールの上を走ったのは1922年、量産機「ロコモーション」号が生産されたのは1925年である。スピードは時速6kmほどだった。当時、蒸気機関車を製作していたのはスチーブンソンだけではなかった。その4年後、リバプールとマンチェスターの間で機関車のスピードレースが行われ、スチーブンソンが優勝した。このために彼は「蒸気機関車の発明者」として知られるようになった。

イギリスの植民地貿易 イギリス本国→西アフリカ→北ア メリカ→イギリス本国と大西洋を一周することで富が富を生む。「三角貿易」と呼ばれた。