(5)日出る所に近し、以って名と爲す

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 『舊唐書』は唐が滅びたあと、五代(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)のうち、後晋(突厥系沙陀族石氏)の出帝が「唐書」の名で劉昫らに命じて編纂させました。上梓は945年ということになっています。(舊は「旧」の正字)

 ところが、その翌年に後晋が滅び、劉昫も亡くなってしまった。そのため本当は未完成だったようで、それが幸いして唐初の出来事については原資料がそのまま記載されました。結果として正確な記録が残されたわけでした。

 注目されるのは、倭国の自称変更について記事が載っていることです。

  日本國者倭國之別種也

  以其國在日邊故以日本爲名

  或曰倭國自悪其名不雅改爲日本

  或云日本舊小國併倭國之地

  日本國は倭國の別種也

  其國日邊に在るを以て日本を名と為す

  或は曰う、倭國自ら其名の雅ならざるを悪み日本と改む

  或は云う 日本は舊小國、倭國の地を併せたり

 それがいつのことだったかは、『新唐書』の東夷伝日本条で分かります。ちなみに『新唐書』は北宋第4代皇帝仁宗の嘉祐六年(1060)に欧陽脩らが完成させています。唐の滅亡から約150年後ですが、『舊唐書』の不備を補い、資料を追加して再編集しているのが特長です。その東夷伝日本条には次のようにあります。

  咸亨元年 遣使賀平高麗

  後稍習夏音

  惡倭名更號日本

  使者自言 國近日所出以爲名

  或云 日本乃小國爲倭所并

  故冒其號

  咸亨元年、使を遣して高麗の平ぐを賀す

  後に稍(やや)夏音(中国語)を習い

  倭の名を惡(にくし)みて更(あらた)めて日本と號す

  使者自ら言う、國は日出ずる所に近し。以て名と為すと

  或は云う、日本は乃(すはわ)ち小國、倭の并(あわ)す所と為す。

  故に其の號を冒(おか)す

 新しい情報として、咸亨元年に唐の高句麗平定を賀して遣使してきたこと、そのとき「日本」という国号を通知してきたことが記載されています。咸亨は唐の3代皇帝高宗の年号、その元年は西暦670年に当ります。

 朝鮮半島最古の史書で、高麗第17代仁宗の命を受けて金富軾らが1145年に編纂した『三国史記』にも同じ記事が載っています。その新羅本紀文武王十年(670)十二月条

  倭國更號日本

  自言近日所出以爲名

  倭國更て日本と號す

  自ら日出る所に近し、以って名と爲すという

 がそれです。ただ「更號日本 自言日所出以爲名」は『新唐書』と一言一句違いません。『新唐書』からの引用であることが分かります。

口絵」『舊唐書』(JapaneseClass.jp Images of 新唐書)