(6)自称変更の背景に白村江の敗戦

白村江風景

これまでのところでは、この国の王権が「日本」を名乗ったのは702年のように見えます。しかしそれは中国の王朝が〈倭〉からの変更を承認したときで、それより30年も前、咸亨元年(670)には自称していたことが確認されます。

『新唐書』東夷伝日本条にある咸亨元年の倭國朝貢使節は、葛城大王(天智天皇)の即位2年(669)11月に出航した第7次遣唐使節団のことと思われます。大使は河内鯨という人物でした。『日本書紀』巻第27、天智天皇8年の記事に、「是歳、小錦中河内直鯨等を遣して、大唐に使せしむ」と出ています。

「書紀」が天智8年としているのは、前代の寳女王(斉明天皇)が、661年8月、百済王国の復興をめぐる対唐戦争の最中に亡くなったために、翌年1月、葛城王が即位にかかる正規の手続きなしに大王位に就いたときを元年としているためです。

河内鯨を大使とする第7次遣唐使節が派遣されたのは、663年8月、白村江(現在の大韓民国全羅北道群山市の錦江河口付近)で百済復興を支援する倭國軍が唐・新羅連合軍に大敗した戦後処理と考えられています。つまり「日本」の自称は、百済復興戦の戦後処理の過程で生まれたということができそうです。

戦後処理の第1弾は、倭国軍が撤退した1年後(664年7月)、郭務悰という武官を軍使とする唐の百済駐留軍が九州の筑紫(福岡市)に上陸したことに始まります。魏・帯方郡の官吏が卑弥呼女王に会うためにやってきたことはありますが、"敵"軍による上陸・占拠は初めてでした。

軍事的な圧力をかけて、葛城王の"首"を差し出せと要求した、と見る向きもあります。しかし倭国政府は筑紫の海岸と太宰府の間に水濠を掘り石壁の築いて決戦に臨む構えを見せていました。冬を前に、玄界灘の波濤は厳しさを増してきました。

実は50年ほど前のことですが、博多~釜山間の水中翼船航路を探る仕事を手伝ったことがあります。そのとき調べた波高データが正しければ、玄界灘の渡航は夏場が最適、冬場は最悪なのでした。帰路を確保するタイムリミットで、郭務悰は交渉に行き詰ってしまいます。

665年9月、郭務悰に代わって劉徳高が軍使として赴任しました。「司馬上柱國」の称号を持っていたので、武官としてかなりの上位者でした。彼が率いてきた幕僚は254人と記録されています。ちなみに「柱國」は文字通り「國を支える」の意味。将軍と同等の称号で、「上柱将軍」とも表記されました。【続く】

写真は錦江・白村江付近