(11)「書紀」引用の「日本世記」

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禰公墓誌の「日本餘噍拠扶桑以逋誅」について、「日本」をヤマト=大海人王・親新羅陣営、「扶桑」を大津=葛城王・親百済陣営と理解することも可能です。しかしそうなると、672年に唐の都に至った第7次遣唐使・河内鯨がなぜ「扶桑」でなく「日本」を名乗ったのか、辻褄が合わなくなります。

当時、唐の知識階級や官僚機構では東の果て全体を「日本」と呼んでいて、「百済餘噍」と書くべきところ百済出身の禰軍の墓誌なので「日本餘噍」としたという説、大津はヤマトから見て東の果てではないので「扶桑」は別の場所(例えば関東)とする見方もあって、結論は出ていません。

もう一つ、ヤマト王権が「倭」から「日本」に改めることを決意したのは671年より前とする考え方を補強するものとして、『日本書紀』引用の『日本世記』という書物があります。著したのは高句麗出身の道顯という釈(下の注参照)で、寶女王(斉明天皇、在位六五五~六六一)のころ、奈良の大安寺にいたことが分かっています。

「書紀」が引用しているのは、寶女王六年(660)七月から葛城王称制元年(662)四月まで計5回、少し飛んで葛城大王即位二年(669)十月の中臣(藤原)鎌足の死のときです。「鎌足薨」を除くと、百済王國をめぐって緊張が高まっていたころの高句麗、新羅の情勢についてです。

『日本世記』が残っているのは逸文のみなので、その経緯や上梓年次は分かっていません。「鎌足薨」にわざわざ引用しているところを見ると、「書紀」編纂に際して藤原家から史料として提供されたのでしょう。権門への忖度が働いたのです。道顯は鎌足の手先として半島情勢を収集していたのか、という想像が働きます。

心酔していた鎌足が亡くなったとき、道顯は「天、何不淑不憖遺耆、鳴呼哀哉」(天、いずくんぞ耆(長老)を遺すこと不淑不憖(ヨシとしない)なるや、ああ哀しいかな)と嘆き悲しんでいます。そこで彼は鎌足の半生を当時の国際社会の中で描こうと思い立ったのかもしれません。

そこにおける「日本」について考えられるのは、①『倭世記』を『書紀』編者が「日本」に直した、②最初から『日本世記』だった——のいずれかです。そして道顯における「日本」は、③北東アジア世界全般、④倭王権のこと——の2つに1つです。

①であれば、話は簡単に落着します。

②+③であれば「東の果て全体を「日本」と呼んでいたのではないか」という推測の文献的な裏付けとなり、②+④ですと「日本」はやはり大津に王宮を置いた葛城王陣営の対外的な自称として編み出されたと考えるのが妥当です。

乙子の変(いわゆる大化の改新:六四五年六月)から大津京まで、別の見方をすると「倭」から「日本」に改称するまで、葛城王と中臣氏は一体の関係にありました。鎌足は最後の仕事として、自前の称号を中国王朝に認めさせることに取り組んだ、とも思えます。

 

写真は明治二十四年発行の兌換紙幣:藤原鎌足像

釈:学僧のこと。「僧」は現在は仏教の行事や式典の司執者を指しますが、7世紀の当時は学生や知識人の総称でした。また伝承によると、大安寺は奈良県大和郡山市にあった熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)を起源としているとのことですが、考古学的な知見は奈良県桜井市の吉備池廃寺、舒明天皇十一年(631)に建立された百済大寺が前身だった可能性を示しています。