(19)大物主神を祀ったのは物部氏

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物部氏を話を続けます。

物部氏の「物部」は、ヤマト王権の内では「モノ」を司る専門集団を指しました。日本史における読みは「もののべ」が一般的ですが、「もののふ」「ものべ」とも読んでいます。

ウィキペディアによると「古代日本の朝廷の兵(軍事)・刑(刑罰)に携わった職業部」「令制諸官司にも配属されている品部」とあり、「氏族的系譜を有し、大化の改新以前は物部連が伴造として管掌してきた」とされています。

伴造は大王に奉仕した職業集団のことです。ここでは大化の改新以前の話なので「物部が掌握した伴造」ということになります。王家や宮中で使う食器から軍兵の武具馬具まで、ありとあらゆるモノを所管したようです。

モノを司るというのは、在庫を管理し発注・廃棄することではありません。「倭」の時代は、暮らしや祭事、軍事に必要なすべてのモノを自分たちで作るしかなかった時代です。物部の部民たちは糸を紡ぎ木を伐り、土を捏ねて器を焼き、鉄を溶かして剣を鍛えました。

モノを作り、モノを管理するのが「もののべ」の仕事です。そのモノを使って王家や宮中を運営する者のうち、組織的な規律が求められる治安、護衛、軍事を司る者が「もののふ」と呼ばれるようになりました。ちょっと脇道に入ると、縄文時代、例えば青森県の三内丸山遺跡でも、職能集団が形成されていたことが確認されています。

「倭」の時代はアニミズムが続いていて、ありとあらゆる事象に精霊や神さまが宿っていました。モノを作るということは、モノの神さまを祀ることでもありました。物部氏の祖神「ニギハヤヒ」は八百万の神の"元締め"ということになってきます。

一方、物部の長であれば、その名乗りは「大物」であっていいはずです。実際、伴部の長は「大伴」を名乗りました。しかしそうなっていないのはなぜか、という疑問が残ります。

物部氏が「物部」を名乗った経緯について『書紀』が伝えるところは、ミマキイリヒコ大王(崇神天皇)の五年「國内多疾疫民有死亡者」(國の内に疾疫(疫病)の民、死亡する者多くあり)が深くかかわっています。

疫病を抑える手立てに悩んでいた大王の夢に大物主神が現れて託宣したのは、「吾を祭れば平らぐ」という。そこで大王は生母の兄(伯父)の伊香色雄に「祭神之物」として八十平瓮(やそびらか=たくさんの平らな素焼きの器)を作らせた。

しかるのちに大物主神の子孫・オオタタネコ(大田々根子)に大物主神を、ナガオチ」(長尾市)に倭大國魂神を祀らせたところ、疫病は治まった——というエピソードです。枝葉末節を除くと、物部氏の女性が産んだ大王のとき、物部氏が祭器を作って大物主神を祀ったという話です。

まるで物部氏による大物主神祭礼譚に思えます。

 

写真は三内丸山遺跡の大型掘立建造物(筆者写す)