(33)青銅器は中国の廃棄物

033青銅の武器は中国の廃棄物

 

連載第29回「宝鐸は神器に入っていない」の続きです。途中にミマキ王権の性格や弥生時代の編年を挿入したのは、考古学的な視点からの考察を進める準備でした。 

鐸は祭礼や儀礼に用いる楽器だったようですが、次第に大型化して祭器として祀られ、最後は山肌に埋設されました。 

中国大陸にも朝鮮半島にも発見されませんので、この列島独自の金属器ということになります。鉄製もあったようですが、発見されているのは主に青銅製なので「銅鐸」と呼ばれます。奈良時代は何だか分からないけれど祭器のようなので「宝鐸」という言葉が使われました。 

銅鐸の材料となったのは、中国ないし朝鮮半島からもたらされた青銅です。金属に放射性炭素C14の年代測定が適用できないので、年代の目安は相対的な編年しかありません。それによると、弥生前期後葉(B.C600~400)に大陸から最初の青銅器の移入があり、中期前葉(B.C400~200)に初期の銅鐸が登場したと考えられています。 

中国大陸は殷の時代(B.C17世紀~B.C1046年?)、青銅器が大量に生産されていました。楚地(湖北省)の銅と呉地の錫を溶かし合わせたのです。春秋戦国と呼ばれ、小国が乱立して合従連衡を繰り返した時期、青銅で大量の武器が製造されました。ちなみに呉地の錫は前漢の時代に採り尽くして、それが現在の「無錫」(Wuxi)という地名になっています。 

鉄器の利用が広がったのはB.C600年ごろです。武器や祭器はずっと青銅製でしたが、B.C300年ごろから鉄が優位になりました。秦帝国が「鉄官」という役所を設けたのは、鉄を独占することによって農業(食料)力と軍事力につなげるねらいがあったのです。 

その結果、青銅の武器が鉄製品に置き換えられ。周辺異族に払い下げられることになりました。この列島に最初に入ってきたのは銅剣、銅鉾、同戈、さらに鏃や小刀などでした。それが本来の殺傷機能を発揮したのは50年から60年、最も長く見て100年といったところです。 

当時の成人平均寿命からすると、青銅時代は5世代以上にわたったので、十分に長かったといえます。青銅の武器がどのような経緯でこの列島に持ち込まれたにせよ、最初にそれを保有した集団はとてつもない武力を発揮することができたはずです。 

例えばそれは、16頭の馬と銃で武装した500人の兵を率いて進撃したエルナン・コルテスです。彼は1519年2月にキューバを出帆し、同年11月18日にはアステカ王国のモクテスマ2世を支配下に置くことに成功しました。銃という武器が圧倒的な威力を発揮したのです。 

あるいはまた、アメリカ合衆国の南北戦争(1861~1868)が終結して不用になった数十万丁のミニエー銃とゲベール銃は、日本に輸入されて倒幕に使われました。薩長軍の連発銃を前に、幕軍は抵抗する意欲すら喪失してしまいました。 

ところが青銅の剣や鉾は、この列島では征服戦争を誘発していません。搬入されて間もなく、銅鐸が出現したのです。それはまるで銅鐸の材料として「輸入」されたかのようです。

 

写真:殷時代の青銅器(上海博物館)