(47)倭国大乱は中国の延長線上

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「有倭人」磚の「以時盟」について、倭人=神仙の使者は誰と何を盟約するのかーー。

その答えとして考えられることは、太平道と新しい世界を開くことです。

会稽曹君が亡くなったあと、西暦184年から192年ごろまで、中国大陸は戦乱に覆われていました。太平道に帰依する人々が後漢帝国の腐敗に業を煮やし、武装蜂起したのです。

この武装蜂起がのちに「黄巾の乱」と呼ばれるのは、反乱軍の兵士が黄色い布を身につけていたためでした。五行思想で漢は赤、赤の次は黄色です。次は自分たちの時代だ、という意思表示です。

曹君の墓が完成したのは、曹君が亡くなった西暦177年以後です。作業に従事していた職工や農民は、倭人=神仙の使者が自分たちを応援してくれるといいのになぁ、と思っていたのでしょう。

それは亳県の職工や農民の願いや希望的観測ではなかったかもしれません。倭人は漢帝国に追い立てられた呉、楚、越の末裔で、ともに神仙思想=道教の信奉者だった可能性があるのです。

倭人が神仙思想=道教と密接な関係にあったことを示すのは、『論衡』の記事だけではありません。三種の神器で鏡が筆頭にあげられるのは、鏡の反射を日神に見立てているからではなく、邪気を払う神霊が宿っていると考えられたからでした。

中国大陸の黄河より北、朝鮮半島にかけて、鏡は容飾のための高価な実利器でしたが、山東半島より南(まさに「中国」の所以となった中原、「夏」王朝発祥の地である長江流域)では夜露を集め、日月星を映す祭礼の宝器だった、という指摘があります。

出土した銅鏡は、背面の文様から内行花文鏡、方格規矩四神鏡、神獣鏡、画象鏡といった呼び名で整理されます。その多くは道教の神仙図であり五帝信仰、四神獣信仰と結びついています。 太平道の蜂起と倭人が連携していた(かもしれない)と考えるのには、一定の合理性があるでしょう。

その証拠が、『後漢書』と「魏志倭人伝」に記録されています。 『後漢書』東夷伝「桓靈閒倭國大亂」(桓帝と霊帝の間、倭国大いに乱れ)、「魏志倭人伝」「其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年」(その国、本また男子を王と為し往(とど)まること七八十年、倭国乱れ相攻伐すること歴年)がそれです。

倭人は秦・漢帝国に追い立てられた呉、楚、越の末裔ーー福井・石川・富山・新潟のあたりに越の人々のコロニーがあったので「越」と呼ばれた、というのは、ややこじつけが強いかもしれません。

ですが呉、楚、越の人々の総称が「夷」だったので、その末裔のうち交易に従事する倭人の王を『漢書』が「東夷王」と位置付けたとする指摘は、「越」論より筋が通ります。

元は一緒ですが、渤海を中心に活動していた倭人の本拠は玄界灘をはさんだ両岸(弁辰と筑紫)、東シナ海の倭人は有明海~熊本平野に本拠を置いたとしたら、倭国大乱は漢帝国と太平道の戦いの延長線上にあったと理解されるでしょう。

 

口絵:会稽山に建つ大禹陵石碑(Wikipediaから)