(51)「邪馬壹」は宮崎平野?

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「倭人伝」の「邪馬壹國」はどこかーーは、日本古代史最大の謎であり、古代史ファンなら一家言あるところでしょう。いわゆる「邪馬台国論争」です。

この論争の口火を切ったのは、一般に新井白石だといわれています。徳川将軍第7代家継の正徳六年(1716)に著した『古史通或問』で邪馬壹国は奈良盆地にあった古代国家で、それが大和朝廷になった、と論じました。ただし白石はその後、九州説を唱えています。

『書紀』はオキナガタラシ姫(神功)紀三十九年条、四十年条、四十三年条に「魏志云」と倭人伝の文を引用しています。それで『書紀』のオキナガタラシ姫が「倭人伝」の卑彌呼女王なのだ、というわけです。また九州説を唱えたのは、「邪馬壹」を「ヤマト」と理解し、筑後郡山門(現在の柳川市周辺)に比定したのです。

これはたいへん分かりやすく、大和説と山門説の代表的な論拠となっています。大和説の場合は三輪山のふもとに広がる纒向遺跡が有力候補地です。ただ大和説であれ山門説であれ、オキナガタラシ姫紀に「魏志」が引用されていること、邪馬壹をヤマトと読むことは同じです。

江戸時代、九州山門説の人々は「卑彌呼は熊襲の女酋であって、大和の女王の名を偽称したのだ」と論じています。その背景に、わが皇統が中国に朝貢するわけがない、という和風中華思想があったかもしれません。

邪馬台国九州説に散見される「卑弥呼=熊襲女酋」論は、『書紀』が「オキナガタラシ姫=卑彌呼」に立っていることを論拠にしながら、結論として『書紀』を否定するという自己矛盾に陥っています。

また邪馬壹を「ヤマト」と読んで奈良盆地の大和、筑後郡の山門に当てると、話が万葉仮名の音韻論に入ってしまうのですが、3世紀の音を6世紀の音で推測して所在地比定に適用するのは無理があるように思います。

もう一つのアプローチは「倭人伝」の旅程記事です。

伊都國について「郡使往来常所駐」とある以上、帯方郡の使者はそこから先に行っていない(行ったとしても日帰りの物見遊山コース)わけで、つまり邪馬壹國までの行程は伝聞に違いありません。住居の戸数も伝聞なので、距離・方角と同じように当てにできません。

それよりも何よりも、「邪馬台国」はなかった、という古田武彦氏の論説は説得力があります。現存する最古の『三國志』紹興版は「邪馬壹国」です。「臺」は「台」、「壹」は「壱」「一」なので意味が全く違います。

そのうえで、「臺」は皇帝の王宮を意味する最上級の圭字なので、異族の國名に使うはずがない、という指摘は本場ものの中華思想からすれば至極当然でしょう。古田氏は「邪馬壹国」の所在地を博多湾周辺に比定しています。

もう一つ、ユニークなのは安本美典氏の天照大神=卑彌呼女王説です。同氏は『書紀』の神話や地名から、邪馬壹国の場所を甘木朝倉に比定し、さらに邪馬壹国が東征して大和に王朝を樹立したと考証しました。

このほか人口収容面積から宮崎平野・広渡川流域に比定する意見もあって、これは人口収容能力の観点から一定の説得力を持っているように感じます。

 

口絵:博多人形「卑弥呼」(幸子作)