(61)纒向遺跡から出た桃の種

f:id:itkisyakai:20200507080623j:plain

纒向遺跡から出た桃の種

伊都國から奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹国への道里は、榎説の放射状に理解するのが合理的です。帯方郡から伊都國までが1万500~1万850里なので、伊都國~邪馬壹国は1150~1500里(75~97.5km)の南、もしくは東南東にあったことになります。

1里430mで計算し、「南」を東と読み替えれば、奈良県の桜井市のあたりが候補地にはなります。しかし、瀬戸内海を船で行ったとしたら(日本海を行ったにせよ豊後水道から太平洋に出たにせよ)、途中の停泊地に関する情報があって不思議はありません。停泊地は湊があっただけでなく、それなりの規模の倭人コロニーーー傍衆国で一括されず「投馬國」のように特記されたはずだからです。

帯方郡が周辺異族に使者を派遣したは、一つは交易のため、一つは防衛のために異族の実情をつぶさに観察し、報告することが使命でした。倭地においては後漢の時代から、伊都國に楽浪郡や帯方郡の郡使が常駐していたと考えることもできます。

郡使が自由に行動できるのは奴國、不彌國までに制約されていたとしても、かなり詳細な情報を得ていたはずです。つまり周防、伊予、吉備、出雲、但馬、日向、土佐、讃岐などに類する國の名、もしくは661年1月にタカラ女王(斉明)が百済復興軍支援のため筑紫の朝倉に遷宮したとき、停泊した「ナニハ」(難波)、「トモ」(鞆)、「ニギタヅ」(熟田津)といった湊の名が、形を変えて記録されていて不思議はありません。

「投馬國=トモ(鞆)」説だけでは、航路としての連続性を見つけることができません。 そのようなことから筆者は邪馬壹国=大和説を取らないのですが、桜井市の纒向遺跡は九州北半の国々よりるかに強力なクニが存在した物証があります。

一つは全国各地の様式の土器が出土することです。各地から人が集まっていたこと、交易市場があったことがうかがわれます。四方八方から道が集まる「チマタ」が「ヤマタイ」の由来と考えられなくもありません。

また、大規模な宮殿や拝殿が類推される太柱の建造物があったことも分かっています。箸墓古墳もありますし、「ハツクニシラス」の異名を持つミマキイリヒコ(崇神)伝承も傍証になります。

さらに魅力的なのは、大量の桃の種が出土したことです。 弥生後期、纒向で桃を供物に捧げる信仰儀式が行われていた証拠です。邪馬壹国大和説に立つと「決定的な証拠」に見えますが、放射性炭素14が西暦135~230年ということが気になることろです。

『書紀』には、イザナギが黄泉の国から追いかけてくるイザナミ(その死霊)に桃を投げて逃げ切っきたエピソードが載っています。お伽話では、桃太郎が鬼が島を征服しています。

桃太郎は無法な侵略者として非難されるべき、という意見は別として、なぜ柿太郎じゃなく桃太郎だったかというと、桃が魔除けのアイテムだったからです。あるいは長寿の霊物で、華夏では最高女神・西王母の象徴ともされています。

「倭人伝」には「卑彌呼は鬼道を事とし」とあります。鬼道は道教の原型となった太平教(黄巾の乱の母体となった神仙信仰)のことです。

纒向が「邪馬壹国」だったかどうかではなく、倭人が道教の信奉者だったこと、倭人は奈良盆地にも入り込んでいたこと、華夏大陸の政情の影響を受けていたことが分かります。