(65)「○奴國」の生業は稲作

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弥生の集落(吉野ケ里遺跡)

「倭人伝」には8つの「奴國」が見えています。奴國、彌奴國、姐奴國、蘇奴國、華奴蘇奴國、鬼奴國、烏奴國、狗奴國です。「狗」は古代韓語で「大きな」を意味する「ク」の音を写した文字であることから、「博多平野の奴國の分国が大きく発展したのが狗奴國」だ、という見立てもあります。

そこでいう「博多平野の奴國」というのは、西暦57年、後漢の光武帝の建武中元二年に使者を派遣した「委奴國」のことです。「委奴國」を「倭の奴國」と読んで、春日市の須玖岡本遺跡の主に比定するのが通説です。

それに対して本稿では、「委奴」は「匈奴」(凶暴な野蛮人)に対置する「温和・従順な野蛮人」の意味であって、特定の地域名や部族名ではない、という立場を取っています。またその下地には、『漢書』王莽伝にある「越裳氏重譯獻白雉、黄支自三萬里貢生犀、東夷王度大海奉國珍、匈奴單于順制作、去二名」(越裳氏は訳を重ねて白雉を獻じ、黄支は三萬里より生犀を貢ぐ。東夷王は大海を渡りて國珍を奉じ、匈奴單于は順制に順じて二(文字)の名を去る(止める)がありました。

越裳氏重譯獻白雉」は『論衡』の記事と同じです。王充と班固は同じ伝承を共有していたのです。『漢書』ではさらに、黄支族(交趾:ベトナム南部)が生きた犀、東海王が國珍を献じ、匈奴が帰順しています。

『論衡』では「越裳」と「倭人」がペアで登場していますので、大海を越えてやってくる東海王は倭人のことに違いありません。東夷の王なので、「夷」の音に通じる「委」の文字が採用されたのでしょう。

では8つの「○奴国」の「奴」がすべて「野蛮人」の意味かというとそうではなくて、倭人の「ヌ」「ナ」の音に「野蛮人」を意味する漢字を当てたのでしょう。「卑」「邪」「鬼」「狗」などと並んで、華夏王朝が卑下する周辺異族に常用した悪字です。

倭人の「ヌ」「ナ」は農作地(泥湿地)を意味しました。現在でも「ナの花」(菜の花=野の花/畑の花、「ナッパ」(菜葉=野の葉/畑の葉)」という形で残っています。泥を「ネ」といい、ネチャネチャ、ヌタヌタ、ヌルヌルといった形容詞はナ行で始まっていることは無縁ではありません。

「倭人伝」で「○奴國」と表記される国々は、生業が農業だと言っているように思います。畑作ではなく水筒耕作の集落や地域を「○ナ」と呼んだのではないかと思います。

「狗奴國」も「奴國」ですから、生業は農業=水稲耕作だったのでしょう。ということは、所在地は山あいではなく、広い河川敷や河岸段丘を伴う大きな川の流域に違いありません。

一方、伊都国の東南百里にあった奴國は実名を持っていないことになります。彌でも姐でも蘇でも華でもない、ただの「奴國」をどう理解すればいいでしょうか。

留意すべきなのは「奴國」には兕馬觚と卑奴母離という役人がいたけれど、王の記述がないことです。兕馬觚と卑奴母離はどこの役人かといえば、伊都國に決まっています。

伊都國には世々王がいて、女王国に統属していました。名目上は女王に従っていたけれど、実質的な政治権力は伊都國に集中していました。

後世の構図で分かりやすく説明すると、伊都國は城下町、奴國は農業集落の集合、不彌國は漁撈・港湾と交易の町、邪馬壹國は祭祀の門前町。その一体がほぼ博多平野全域に展開していたとすれば、伊都国の中心から奴国、不彌國が6~7kmというのも納得できます。