(70)「戦士の墓」が語るもの

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土井ヶ浜遺跡の人骨

博多平野を流れる那珂川、御笠川、遠賀川の流域は、物部氏や安曇氏など、いわゆる国津神系氏族の故郷といわれているところです。このエリアから関門海峡を挟んだ山口県の日本海側、角島あたりまで(いわゆる響灘沿岸域)には、弥生中・後期の遺跡が集中しています。国津神系氏族の記録と考えていいでしょう。 

その中で「戦士の墓」の異名を持つのが、下関豊北町にある土井ヶ浜遺跡です。「戦士の墓」の異名は、胸から腰のあたりに15個の石製鏃が射ち込まれた成人男性の埋葬人骨が発見されたことに依っています。響灘から300mほどの砂丘に位置していて、砂に含まれる石灰分が人骨を良好な状態に保存しました。 

1931年(昭和六)から学術調査(発掘)が始められた弥生中・後期の埋葬遺跡で、そこから出てきたのは300体以上の人骨でした。砂地に穴を掘って砂をかけただけという埋葬の状況や、足首が縛られたり体を切断されたり、顔を潰されたりした殺傷人骨、あるいは頭蓋骨が1か所にまとまって発見されているのは、組織的な戦闘の死者や、敗れた側の指揮官や神官を処刑して埋葬したのかもしれません。 

それはそれとして、1か所で300体以上の人骨が出土したのは、弥生時代人に関する人類学的調査に画期をもたらしました。人骨の調査に当たった金関丈夫氏(九州大学医学部教授)は、

ーー紀元前3世紀以後、朝鮮半島から九州北半や山口県西部に、断続的に少なからぬ人数が渡来し、原日本人(縄文時代人)と混血して弥生時代人が誕生した。

と論じました。

渡来した第1世代とする異論もありましたが、その後、華夏・山東半島の古代人骨との比較やDNA鑑定などによって、金関説が正しかったことが証明されています。 

本連載の第35回「殺傷人骨が物語るもの」で触れたのは「マルサスの法則」です。

具体的には、鉄製の農耕具が食糧生産力を増強し、生活レベルを引き上げましたが、人口の急増に食糧生産が追いつかなくなって戦争が起こる、ということでした。筑紫平野と周防地方が争ったのか、「邪馬壹國」の東征やヤマト王統軍の熊襲征伐を物語るのか、興味があるところです。 

関連して思い当たるのは、『書紀」オシロワケ(景行)紀で、オシロワケ大王が熊襲征伐に出かけたとき、「周芳娑麼(山口県防府市佐波)の「魁帥」(賊徒の頭目)神夏磯姫が剣、鏡、瓊を掲げて出迎えた」という記事です。またナカツヒコ(仲哀)が熊襲征伐に赴いたとき、同じ周芳娑麼で夏羽という魁帥が同じ儀礼でナカツヒコ一行を出迎えています。夏羽は夏磯の子孫です。 

ここで気がつくのは、周防に「夏」姓の王統が存在していたことです。『隋書』には周防に「秦王国」があったと記されていて、ヤマト王統の人たちと違う言葉を使っていた、という記事が載っています。秦の流民が辰韓の地に樹てた「辰國」との関連を示唆しています。 

夏磯姫は「魁帥」と表記されていますが、3世紀のころのことであれば「女王」といっていいでしょう。夏氏を「邪馬壹国」の王統に比定するのは短絡に過ぎるとしても、土井ヶ浜の戦士の墓が物語るのは、「辰國」と「邪馬壹國」あるいは『日本書紀』が語る東征譚との関連です。