(78)2人の中郎将の立ち位置

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遼東半島と山東半島

難升米の外交デビューは景初二年(238)ということになっています。しかし同年六月(新暦8月)まで遼東半島は公孫氏の「燕」國が威を張っていて、高句麗、貊、韓、濊、倭といった北東アジア諸族が魏帝国に出向くのを阻害していました。 

「倭人伝」が記す景初二年は、公孫燕國が滅亡した年なので、倭人の使節団が帯方郡を訪問することはできなかった。なので景初三年が難升米の外交デビューだ、というのは一理あります。 

そのときの使節団は、難升米が正使、都市牛利が副使でした。都市牛利は詔書に「牛利」と表記されています。「都市」は姓(苗字)というのが「倭人伝」の解釈です。2人は魏帝国の都・洛陽まで出向いて皇帝に拝謁し、難升米は「魏率善中郎将」、牛利は「魏率善校尉」の銀印青綬を授けられました。 

翌正始元年の夏、帯方郡の建中校尉梯儁を団長とする使節団が倭地を訪れ、卑弥呼女王に「親魏倭王」の金印紫綬を手渡します。難升米は倭人社会で、魏帝国に認められたナンバー2になりました。 

正始四年、「大夫伊聲耆掖邪狗等八人」が帯方郡を訪問しています。大夫伊聲耆が正使、掖邪狗が副使という扱いです。しかし「掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」とあって、伊聲耆については記録がありません。帯方郡ー洛陽を往復する間に、伊聲耆の身に異変があったのかもしれません。名前を文字が「お告げ(声)を伝える(伊)老人(耆)」の意味を持っているとすると、あり得ないことではありません。 

素朴な疑問は、なぜ魏帝国は掖邪狗を難升米と同格に扱ったのか、ということです。帝国中枢の官吏が東の海の向こうに住む倭人を承知していたとは思われません。正始元年に梯儁が現地に出向いたので、帯方郡は詳細な情報を持っていたでしょう。

1つ考えられるのは、卑彌呼女王の王宮が中郎将が2人いてもいいほど大きいと考えたからです。中郎将は前漢時代の初期は3人、それが元始元年(西暦1年)5人になりました。禄は2千石で、皇帝の許可がなければ身柄が拘束されない特権が与えられた高官です。 

「倭人伝」の戸数を合計すると15万戸で、1戸当たり6人なら9 0万人、大家族で1戸15人なら225万人ですから、「大国」には違いありません。ですが帝国宮中にあって中郎将は五官、左、右、羽林、虎賁の5将とされ所管するところが異なっていました。形式的であれ全く同じ名の称号を2人に与えれば、諍いの原因になりかねません。

帯方郡は難升米と掖邪狗は諍いを起こすことはない、と確信していたのに違いありません。どういうことかというと、景初三年の遣使主体は女王国以北の青潮グループ(對馬、一大、末盧、伊都、奴、不彌)、正始四年の遣使主体は「其餘旁國」だったのではないか、という見立てです。 

名前の字面が意味するのは、正使の伊聲耆が「精霊のお告げを伝える老人」、副使いの掖邪狗は「面妖な新興宗教(邪)を補佐する(掖)下僕(狗)」です。宗教王直属の中郎将がいても、実務を司る青潮グループの中郎将とは競合しないという判断があったのでしょう。