(80)卑彌呼亡きあとの混乱

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卑弥呼像(佐賀県神埼駅前)

「倭人伝」によると、卑彌呼女王が亡くなったのは、西暦247年か248年です。

そのあとのことを「倭人伝」は「更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人」(更に男王立つも國中服せず。更に相誅殺し当時千余人を殺す)と記します。

ここでいう「国中」が邪馬壹國を指すのか、邪馬壹國を筆頭とする倭人の小国連合を指すのかは議論のあるところです。「倭人伝」は邪馬壹國を戸数七万としていて、1戸6人とすれば42万人ですから、3世紀前半の北東アジア世界でそこそこの規模といえます。

本稿は、邪馬壹國は狗奴國を含む黒潮グループ=「其餘旁國」21邑の総称で、しかし「所女王之都」は倭人の青潮グループ=北部連合4邑のうちにあったととらえています。卑彌呼女王のあとに立った男王は狗奴國の卑彌弓呼王で、実は彼こそが「男弟佐治國」(國を治むを佐する男弟)であり、女王の居室に出入りすることができた「唯有男子一人」だった、という見立てです。

打ち続く凶作と天変地異が倭人の社会に不安を増長しているなか、247年3月末に発生した日没時の皆既日蝕が、卑彌呼女王の責任論につながりました。その背景に親魏か親呉か、長年の路線対立が燻っていて、239年に青潮グループが魏帝国に使者を送ったことで、両者の対立は深まっていたのでしょう。

247年の初夏、黒潮グループは筑後平野に攻め込み、筑後川を挟んで対峙します。青潮グループは伊都國の王族を派遣して急を知らせ、魏帝国は帯方郡から張政らを派遣して北部倭人連合を応援しました。しかし戦闘に介入はしていません。張政は課長級の地方事務官(塞曹掾史)で、護衛の兵士は随行していたでしょうが戦闘に介入できる部隊を引率していたわけではありません。

倭載が使者として倭地を発つ前、戦闘が激しくなって、卑彌呼女王の名で停戦を勧告するの宣旨が出ましたが、効果はありませんでした。黒潮グループからすれば、卑彌呼女王は青潮グループの傀儡に過ぎず、年老いた巫蠱はもはや預言者ではありません。

そこで黒潮グループは卑彌呼女王の弟・卑彌弓呼王を立てて決戦に臨んだのですが、青潮グループが卑彌呼女王を手放した(自裁させた)ので陣を解いたーーというストーリーが浮かびます。

「倭人伝」の記録から、魏帝国が「更立男王」(卑彌弓呼王)を卑彌呼女王の正統な後継者と認めなかったことは明らかです。公孫燕は滅びていて、琅琊ー大連間の航路が魏を脅かすことはありませんでした。「女王之所都」と「親魏倭王」の印綬は青潮グループが握っていたので、青潮グループは優位な立場にありました。

「國中不服更相誅殺」は、決戦に失敗した黒潮グループの内輪もめにほかなりません。

248年9月初旬の朝、2回目の皆既日蝕が発生します。前年3月の皆既日蝕を逆手に取る絶好の機会です。張政、倭載、難升米らは合議して「卑彌呼宗女壹與年十三爲王」を定めました。

若い女性の巫蠱が下すお告げだからこそ霊力があるのです。擁立したあと、「政等以檄告喩壹與」(張政ら檄を以て壹與を告喩す)とあります。張政らは壹與に何を告喩したのでしょうか。