(81)2代にわたる神仙の使い

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司馬懿(中国歴史ドラマ「三国志」)

「倭人伝」は「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹」(壹與、大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣はし政らの還るを送り、因りて臺を詣で男女生口三十人を獻上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢す)で終わっています。

宗女壹與を女王に立てたのが248年9月とすれば、壹與の派使は249年の夏ということになります。正使が掖邪狗ですし、派遣された主要な人物が20人もいたというののは「其餘旁國」の少なからずが壹與を支持したことを示しています。

この記事を『晋書』四夷伝倭人条に見える「文帝作相又數至泰始初遣使重譯入貢」(文帝、相となるやまた数を至し、泰始の初め、訳を重ねて遣使し入貢す)のこととする解釈があります。

「文帝」は司馬懿の次男で魏の晋王・相國で256年に死去した司馬昭のこと。司馬昭の死がきっかけとなって、後述のようにその息子・炎が魏の元帝に退位を迫りました。

「泰始」は265~274年、晋で使われた元号ですが、265年の十二月十三日に元帝曹奐が晋王司馬炎に帝位を譲りました。泰始元年は27日間しかありませんでした。つまり翌年が実質的な元年=初年でした。

同書の世祖武帝紀は泰始二年「十一月己卯倭人來獻方物」と記しています。旧暦7月に倭地を出発、帯方郡に立ち寄って洛陽に着いたのが10月、皇帝に拝謁したのが11月というのは矛盾しません。

しかし「倭人伝」にある最後の遣使が泰始二年のこととするのは、無理があるように思います。泰始二年は『晋書』の対象外ですし、張政が22年も倭地にとどまっていた理由がありません。

晋にとって倭人は、景初二年(238)、司馬懿(晋の高祖、追号して宣帝)が公孫燕國を滅ぼしたときから、浅からぬ縁がありました。倭人の青潮グループは反燕勢力の一員として、呉帝国から燕國に支援物資や兵員を送る琅琊ー大連航路を妨害するとともに、海浜から陸戦隊を送り込んでいたというのが本稿の見立てです。

このとき燕國と境を接する高句麗、濊、韓といった東夷諸族は、魏帝国の支配が自分たちに及ぶことを警戒して中立の姿勢を保ちました。倭人青潮グループの活動は、総大将・司馬懿にとってありがたく思えたようでした。

『晋書』は魏の時代の出来事であるにもかかわらず、また司馬懿が帝位に就いていなかったにもかかわらず、高祖宣帝紀(太祖宣帝は司馬懿の追号)「正始元年春正月東倭重譯納貢」を記録しています。卑彌呼女王の厚遇は恩賞という意味もあったのでしょう。

ちなみに「東」は五行思想で春、青のことで、「東の倭」という意味ではありません。

「泰始初」の遣使は「并圜丘方丘於南北郊二至之祀合於二郊」(併せて円丘方丘を南北の郊に併せニ至の祀りをニ郊に合わせたり)の記事が続くことから、冬至の式典に合わせたのだ、とする指摘があります。そうかもしれませんが、基本は晋帝国の樹立を祝賀するものだったと思われます。

しかし『晋書』は、使者を送ってきたのが壹與女王だったかどうか、詳細を伝えていません。 卑彌呼と壹與、宣帝と武帝の各2代連続で神仙國の女王が使者を送ってきたのですから、大仰に記録されておかしくありません。遣使の主体は邪馬壹国だったのか疑問が湧いてきます。