(96)『三國史記』の倭人を探る

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三国史記(六興出版:1980年初版)

話が前後します。「謎の4世紀」の国際状況を前もって見ておくためです。

246年、魏の楽浪・帯方連合軍と韓族が激突し、「韓」「辰」2王家が消滅しました。次いで311年、司馬氏の晋が滅んで「劉」姓を称する「漢」帝国(~329)が建てられました。後漢・光武帝のころ(西暦50年)、華夏帝国に帰順した南匈奴(羯族)の劉淵が建てた帝国です。

これによって北東アジア地域における華夏帝国の拠点である楽浪・帯方郡が消滅し、高句麗、百済、新羅の三国時代が到来したところまで、前節で書きました。華夏の古文書が晋の泰始二年(266)から義熙九年(413)まで、倭人の記録がないのはこのためでした。

五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)十六国、そのうち渤海に面していた趙漢、後趙、前燕(~370)、前秦(~394)、北燕(407~4 36)、山東半島を抑えた北魏(386~534)などに三国と倭人は通貢したはずです。実際、高句麗は氐族符氏の前秦との交易を通じて、372年に仏教を輸入しています。しかし五胡の歴史書に、4世紀の倭人の記録は残っていません。

空白の4世紀を埋めるのは、『三國史記』です。高句麗、百済、新羅の三国時代の出来事をまとめたもので、高麗王国第17代仁宗の命を受けて、慶州門閥の金富軾(Kim Bu-sik)が1145年に上梓しました。

その第一巻「新羅本紀」始祖赫居世(ヒョッコセ)伝の冒頭、「八年倭人行兵欲犯邊」(王の治世八年、倭人兵を行い邊を犯さんと欲す)という記事が出てきます。赫居世八年は紀元前50年に当たります。

また赫居世三十八年(前20年)「春二月遣瓠公聘馬韓」の項に、「卞韓楽浪倭人」の文字が見えています。瓠公は「未詳其族姓本倭人」(其の族姓は未詳ながら本は倭人)、「初以瓠繁腰度海爾来」(初め瓠を腰に繁げ海を度りて来る)とあり、また「卞」の拼音は「biàn」で、「弁」に通音します。弁韓、楽浪と同列で倭人が登場しています。

すべてが史実ではないにしても、紀元前の古い時代から、倭人は韓地に遍在していたようです。それだけでなく、第4代脱解王伝には「本多婆那國所生其國在倭國東北一千里」(本は多婆那國に生まれる所、其の國は倭国の東北一千里に在り)とあって、王統の創始に深くかかわっていました。

そこには「多婆那國」の王と「女國」の王女との間に大きな卵が産まれ、その卵が辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市迎日湾)に流れ着いた。その卵から生まれた男児が長じて第3代儒理王の王女を妻とし、第4代の王となったーーという第2の始祖伝説が記されています。

「在倭國東北一千里」の「多婆那國」が分かれば、結果として「倭國」の場所が分かるということから、「多婆那國」を熊本県玉名地方、兵庫県日本海側(但馬)、石川県加賀市橘町などに比定する見方があるようです。ただもう1つの半島史籍『三國遺事』には「龍城国」とあり、「柳城」「龍城」と称された遼寧省朝陽市だとすると、『三國史記』の「倭国」の位置は半島内に求める考え方も成り立つでしょう。