(98)倭人大いに饑えて來たる

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天明飢饉之図(福島県教育委員会)

好太王碑文の前に、ちょっと脇道に入ります。

あまり注目されていない記事ですが、『三國史記』巻第二「新羅本紀」の第8代阿達羅尼師今(A dalla Isageum:在位154~184)伝に、「倭女王卑彌呼」が登場しています。「二十年夏五月倭女王卑彌乎遣使来聘」がそれです。

阿達羅尼師今の治世二十年は西暦173年に当たります。「魏志倭人伝」の「卑彌呼」がここでは「卑彌乎」(呼→乎)となっています。同じ「魏志」帝紀では「俾彌呼」(卑→俾)とあるので、ここからも倭人の名前は倭人の発音を写した表記だということが分かります。

ちなみに「尼師今」は「古新羅」時代の王号で、ハングルの発音は「nis‐kum/ニスクムまたはニサコム」、「isageum/イサグム」といったところです。第18代実聖王尼師今(在位402~417)までが「古新羅」時代です。以下、本稿では「王」と表記します。

「倭人伝」における卑彌呼女王の外交デビューは景初二年(23 8:景初三年が正しいという説があります)なので、それより65年も前の出来事です。「卑彌呼」を世襲の名と解釈すれば、遣使の主体は先代の女王とも思えますが、ちょっと飛躍があるでしょう。

『書紀』ほどではありませんが、『三國史記』も王統の始祖を可能な限り昔に設定しています。考古学的な知見や華夏の古文書などから、『三國史記』の西暦3世紀以前(200年代)の記事には、かなりの割合で創作が入っていると考えられています。そのなかで、阿達羅尼師今伝に見える「倭女王卑彌乎遣使」は、「倭人伝」の記事を干支1巡(一運=60年)繰り上げ、その5年前に新羅國に遣使したことにしたのだろうといわれます。

ただ、それによって阿達羅王の実在性が疑わしくなるのか、活動期間を一運繰り下げるべきなのかは分かりません。戦戈を交えた百済國の蓋婁王(Gaeru-wang)の実在性や活動期間に影響していきます。『書紀』のホムダワケ大王(応神)以前の記録は周辺諸国との関係が一切出てきません。そこが『三国史記』と『書紀』が大きく違うところです。

新羅第9代伐休王(Beolhyu)の治世十年六月に記載される「倭人大饑來求食者千餘人」(倭人大いに饑え食の求め来たる者千余人)が気になります。飢饉で飢えた倭人が千人以上も食を求めてやってきた、というのは、倭人の居住地が陸続きだったことを物語っています。博多平野からわざわざ船に乗って救いを求めにやってくる、というのはどう考えても不自然です。

また伐休王の治世十年は西暦193年ですから、一運繰り下げると253年となります。その前後の記事を見ると、伐休王の治世九年(252)四月の雪に続いて、十三年(256)、奈解王(Naehae)治世三年(258)、五年(260)、六年(261)、八年(26 3)、十年(265)、十五年(270)、十七年(262)と、旱魃、大雨、蝗害、冷夏、暖冬、地震が記録されています。年貢を減免したり囚人を解放したり、新羅国王は様ざまな方策を講じています。

対馬海峡をはさむ朝鮮半島南部と九州島北部の気候がほぼ同期ないし連動しているなら、倭地(半島南端~博多平野)も同様に凶作となり、人心が乱れたことでしょう。「倭人伝」が伝える「以卑彌呼死」の引き金が何であったかは議論のあるところですが、天候不順と天変地異が遠因だったことが明らかです