(99)浦上八國のクーデター

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首露王の墓(慶尚南道金海市)

『三国史記』新羅本紀の始祖・赫居世居西干(在位紀元前57?~紀元後4)から第17代奈勿王(356~402)までの460年間に、「倭寇」に関連する記事は17回あります。史実かどうかは別として、そこから読み取れるのは次のようなことです。

そこに登場する「倭」の表記を拾うと、「倭人」が10回、「倭兵」が6回、「倭軍」が4回です。記事本数17に対して表記の合計が20なのは、混在記事が3本あるためです。 内訳を見ると、「倭人」が半分を占めています。しかし4世紀の記事3本に見える「倭」関連表記5回に限ると、「倭人」はたった1回(20%)に低下します。

3世紀以前の「倭寇」は海賊的な侵略・略奪行為だったのが、4世紀になると組織的で規律性を伴うようになったということなのでしょう。 その転機になったのは西暦295年、儒禮王十二年春条「王謂臣下曰倭人屢犯我城邑(中略)一時浮海入撃其國如何」(王、臣下に謂ひて曰く、倭人屡我が城邑を犯す(中略)一時海に入って浮かび其の國を撃つは如何)です。ここに「其國」の表記が出ています。

これは3世紀末にいたって、倭寇の後ろに倭国が糸を引いていることが分かった、というのでもありません。倭、辰韓の集団が同時進行で邑から國へ形を変え、偶発的な私闘が組織的、計画的な軍事行動に転換したことを示しているようです。

ところで、朝鮮半島南半の三韓のうち、倭寇の侵略・略奪に悩まされたのが新羅(辰韓)だけだったのは不思議な話です。『三國史記』における3世紀までの倭人は、韓地の海浜ないし河川流域に居住していた漁撈・交易の民という推論に立てば、弁韓の海浜や島が倭寇の発出地であったことになります。「弁辰」と表記されるように、弁・辰が混在していたのであれば、新羅王の足元、辰韓の海浜が倭寇の本拠であってもおかしくありません。

209年、第十代奈解王の十四年秋七月のこととして、「浦上八國謀侵加羅」(浦上八國、加羅を侵すことを謀る)の文字が見えています。「浦上八國」は慶尚南道南西域の海浜と巨済島に展開していた弥生邑國群です(九州北半と一衣帯水だったという前提で、あえて「弥生」という形容詞を使います)。

また「加羅」は洛東江流域に展開していた弥生邑國群を指す、とされています。同じ慶尚南道の弥生邑國群なので、浦上八國と加羅はどう違うのか混乱してしまいます。ところがここでいう「加羅」は、魏志にいう狗邪韓國=狗邪國、のちの金官伽耶國、現在の慶尚南道金海(Gimhae)一帯のことのようです。

ウィキペディア「金海市」には「古代の駕洛国(金官伽耶)の故地であり、韓国最大の宗族・金海金氏の本貫発祥地でもある」とあって、首露王に始まる弁韓王統の本拠がありました。「新羅本紀」奈解王伝では、浦上八國が攻めてくるので加羅國の王子が助けを求めてきた。それで新羅王は八國の将軍を討った、というエピソードが続きます。

「浦上八國」の一々がどこに比定されるかは別として、その主体は被支配層の人々で、クーデターを起こしたのでしょう。彼らこそ、新羅王を悩ませた倭寇の賊=倭人の実態だったかもしれません。