(100)亀峰に登り駕洛を望む

f:id:itkisyakai:20200609080511j:plain

亀旨峰の石碑

馬韓、辰韓、弁韓のうち、由来がある程度判明するのは辰韓です。

「魏志韓伝」は「古之辰國也」(古への辰國なり)とし、「古之亡人避秦役來適韓國」(古への亡人にして秦の役を避け来たりて韓國に適す)としています。

「辰國」は『史記』『漢書』に見えている謎の古代王國ですが、辰王は馬韓の一邑國「月支」國にいて、「常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王」(常に馬韓人を用いて世々相継ぐも、自立して王と為ることを得ず)でした。

432年から445年の間に宋の范曄が編んだ『後漢書』東夷伝には「皆古之辰國也」(皆古への辰國なり)とあって、馬韓も弁韓も辰國から分離したように読み取れます。しかしそれは違いで、范曄が言っているのは「馬韓の地も弁韓の地も、元は辰國だった」ということです。

馬韓は紀元前2世紀の初期、衛氏朝鮮國に追われた遼寧・遼東の華夏人と帰順異族が忠清・全羅道に移住して形成されました。「韓」姓を名乗る者が多かったので、その居住地が「韓の地」と名付けられたのだろう、という話はすでに書きました。

記録上、「馬韓」が確認できるのは2~3世紀です。楽浪郡、帯方郡の公文書にその文字があったのでしょう。

問題はなぜ馬韓というのか、です。

「魏志韓伝」馬韓条には「不知乘牛馬」(牛馬に乗ることを知らず)とあるので、騎馬民族征服王朝論に結びつく自称ではありません。『三國史記』では馬韓のことを「西韓」とも表記しているので、古代韓語で「ma」は「西」の意味なのでしょうか。あるいは華夏の王朝について、正統を西、継嗣を東と呼ぶことが2~3世紀に定着していたなら、古代韓語の「ma」は「真」の意味かもしれません。

『三國史記』新羅本紀は始祖・赫居世居西干の治世三十九年(紀元前19)に「馬韓王薨」、翌四十年(紀元前18)に「百済始祖温祚立」と記しています。これは「魏志韓伝」にある「二郡遂滅韓」のことではないかと思われます。

正始七年(246)、辰韓8國の分割をめぐって韓族が反乱を起こし、帯方・楽浪連合軍が韓王家を滅ぼしました。「薨」ですから、処刑ではなさそうです。また、韓王の支配下に置かれていた「辰王」の生死は不明で、捕虜になってもいません。

さて、弁韓の由来はどうでしょうか。

「魏志韓伝」弁辰条にいきなり「弁辰」と出てきて、それまでの経過をたどることができません。ただ列伝「金庾信」で「十二世祖首露」(十二世の祖は首露)、「以後漢建武十八年壬寅登亀峰望駕洛九村遂至其地開國」(後漢の建武十八年壬寅、亀峰に登り駕洛九村を望みて遂に其の地に國を開くに至る)としています。

建武十八年は西暦42年に当たります。

すべては伝承のうちですが、百済の建国は紀元前18年、新羅の建国は紀元前5年となっています。加羅國の建国は百済から60年後、新羅から47年後のことでした。百済との間がきっちり1運というのが引っかかります。干支を60年単位でずらすのは年紀を操作した証拠で、『書紀』にもしばしば見られます。

「すべては伝承のうち」と言いながらどうしたものかと思いつつ、小説的な興味で書くのですが、韓王家消滅=百済建国ののち、加羅國は辰王家の後裔を王に推戴したとすると、いかにも波乱万丈ではあります。