(101)王家の姓から考えてみる

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金庾信将軍像(ソウル市南山公園)

今回は想像、空想が中心です。

前節で触れた金庾信という人物は、金官加羅国第9代仇衡王(在位521~532)の曾孫に当たります。新羅國第26代眞平王の十七年(595)に生まれ、文武王十三年(673)に79歳で亡くなりました。数々の武勇をあげて新羅の大将軍となり、新羅による半島統一の立役者となりました。

『三國史記』の「金庾信」伝に、本名は「庾辰」だった、という記事が見えています。

父・舒玄が言うには、「吾以庚辰夜吉夢得此児」(吾、庚辰の夜の吉夢を以て此の児を得)たのだが、日月を名にするのはよろしくない。そこで「庚與庾字相似辰與信聲相近」(庚は庾の字に相似たり、辰は信の聲に相近し)なので「庾信」にした、というのです。

のちに「興武大王」の諡を贈られた英雄なので、誕生譚が神秘的に脚色されるのは分からないではありません。しかしわざわざ名前の由来を挿入したのはなぜなのか、思わず考え込んでしまいます。「庚」を「庾」にしたのは字体が似ているからだ、というのは無理な理由付けです。

「辰王」家の後裔が「魏志」の狗邪國に匿われ、伽耶連合の王に共立されたとする立場から見ると、「辰」の文字を消すことに目的があったのではないか、と勘ぐってしまいます。

ところで、金庾信の名前から分かるように、金官加羅国の王家は「金」姓でした。この王家を発祥とする「金海金氏」は韓国最大の氏族だそうです。新羅国の王家も「金」姓で、こちらは「慶州金氏」と呼ばれます。

『三國史記』の「新羅本紀」によると初代赫居世王は「朴」、第4代脱解王は「昔」、「金」氏は第13代味鄒王からとなっています。万世一系を主張する『書紀』と違って、王朝の交代をあっさり認めているのは、華夏大陸との頻繁な往来によるものでしょう。

百済国はどうかというと、初代温祚王は出自が扶餘族なので「餘」(余)を名乗っています。新羅の建国は紀元前18年、百済は紀元前57年と伝承されていますが、現在の研究成果によって、両国とも3世紀後半をさかのぼることはないと考えられています。「二郡遂滅韓」が正始七年(246)ですので、それを踏まえてのことでしょう。

「魏志」の記録に残る三韓の地域名(馬、辰、弁)は、正始七年の前の状況を反映しているのか、韓王家が消滅したあとのことなのかを考えたとき、百済建国の補弼と記録される馬黎ないし忠清道木川馬氏が、2~3世紀の一時期、実際は韓王の補弼として帯方郡との交渉を担っていたのではあるまいか、という想像に駆られます。

また「魏志韓伝」の「弁韓」を『三國史記』は「卞韓」と表記し「カラハン」と読ませています。「弁」と「卞」はともにで通音しますので現地音「ベン」を漢字に写したもの、「カラハン」の読みは加羅国成立後に付されたことが分かります。

「卞」が邑國郡を代表する首長の姓に由来するかもしれない、という空想に立つと、周の文王の後裔で曹の君主となった「卞」氏が浮上してきます。「卞」氏の本姓は「姫」、つまり出自は海洋の民なのでした。