(103)十把一絡げの東夷朝貢

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「晋武帝司馬炎」図(ボストン美術館)

『晉書』に記載される倭人の遣使は、泰始二年(266)十一月のあと義熈九年(413)まで、147年間の空白があります。泰始二年の遣使は『書紀』オキナガタラシ姫(神功)紀六十六年是歳条に「晉起居注云武帝泰初二年十月倭女王遣重譯貢獻」とあって、暗に壹與女王が送った使者だと主張しています。

文中にある「起居」は皇帝が「起きたり居たりする場所」、つまりプライベートな空間のこと。転じて「非公式」を意味しています。『書紀』の記述が正しければ、泰始二年の「倭人來獻方物」は邪馬壹國の使者でなかった可能性が高くなります。

「倭人」に注目すると147年間の空白が強く印象づけられます。ですが『晉書』の帝紀を眺めると、洛陽に都を置いていた西晋のとき、東夷諸族の遣使が頻繁に記録されていて、それが何かの手がかりになりそうです。

具体的には次のようです。

初代武帝

  咸寧二年(276)二月東夷八國 

           秋七月東夷十七國内附

  同 三年(277)是歳東夷三國

  同 四年(278)東夷六國

           是歳東夷九國内附

  太康元年(280)六月東夷十國

           秋七月東夷二十國

  同 二年(281)三月東夷五國

           夏六月東夷五國内附

  同 三年(28 2)九月東夷二十九國帰化

  同 七年(286)東夷十一國内附

           是歳扶南等二十一國

           馬韓等十一國

  同 八年(287)東夷二國

  同 九年( 288)九月東夷七國詣校尉内附

           郡國二十四螟

  同 十年(289)鮮卑慕容廆

           東夷十一國内附

           是歳東夷絶遠三十餘國

           西南二十餘國

  太熈元年(290)東夷七國

第2代惠帝

  永平元年(291)是歳東夷十七國

恵帝が306年に死去した10年後、西晋は滅びました。第3代懐帝(司馬熾)、第4代愍帝(司馬鄴)のとき、周辺異族の遣使・朝貢は記録されていません。

晋朝になって、個々の異族名(國名)を記さず、國数を挙げるように変化しています。

太康三年九月条の「帰化」、七年是歳条の「馬韓」がが注目されます。また「内附」は従属・随伴の意、太康七年の「扶南」はカンボジア、九年の「螟」は稲の茎を食う害虫(蛾の幼虫)です。

使者を送ってきた東夷の数が多いのは、作為・不作為の重複、原資料の不備があったにせよ、正始七年(24 6)の「二郡遂滅韓」で馬・辰・弁の三韓邑國が韓王の支配から解放されたからだと思います。地域ごとに連携して使節団を編成したのでしょう。

太康七年(286)に見えている「馬韓」は、魏帝国が「韓王」に与えた印綬を継承した邑國が、その正統性を主張して入貢したのに違いありません。三十国を率いた邪馬壹國に倣えば、「親魏韓王」印も金印紫綬だったはずですし、正統性を主張したのはおそらく伯済國だったと考えられます。

十把一絡げの東夷の中に倭人の邑国も入っていたに違いない、という指摘があります。もちろんその可能性は否定されるものではありません。ただし、「邪馬壹國」が使者を送ってきたのなら、「その他大勢」の中に紛れ込ませるような表記はしなかったでしょう。何せ華夏が公認した「王」なのですから。