(104)東晉で変わった朝貢の意味

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鮮卑族(Wikiwand)

建業を都とする晋(東晋)が成立した317年以後、『晉書』帝紀における周辺異族に関連する記事は次のようになっています。

東晋初代元帝

 ◯太興四年(321)以慕容廆爲持節都督幽平州東夷諸軍事平州牧封遼東郡公 第3代第3代成帝

 ◯咸康二年(336)二月高句驪使貢方物 第4代康帝

 ◯建元元年(344)十二月高句驪遣使朝獻

第8代簡文帝

 ◯咸安二年(372)春正月百濟、林邑王各遣使貢方物

 ◯六月遣使拜百濟王餘句爲鎭東將軍領樂浪太守

第9代孝武帝

 ◯太元七年(382)九月東夷五國遣使來貢方物

 ◯同九年(384)秋七月百濟遣使來貢方物

 ◯同十一年(386)夏四月以百濟王世子餘暉爲使持節都督鎭東將軍百濟王

第10代安帝

 ◯義熈九年(413)是歳高句驪倭國及西南夷銅頭大帥並獻方物

咸安二年(372)の「林邑」はベトナム中部にあった古代邑国、最後の「銅頭大帥」は意味不明です。

西晋時代の東夷諸族の遣使・朝貢記事は回数が多く、「東夷二十國」扶南等二十一國」というザックリした表現でした。それに対して東晋になると回数が減っています。楽浪郡、帯方郡が消滅し、山東半島まで胡族の支配するところとなったためでした。

そのような中で、北東アジア世界では胡族と東夷諸族の軍事的な対立と外交交渉が始まります。まず遼東で自立を模索していた鮮卑(Xianbei)族の慕容廆(Mùróng Guī)は、趙漢(匈奴・羯族)の支配から脱するために東晋帝国の権威を利用しようと図りました。

元帝紀建武元年(317)六月、琅琊王司馬睿に皇帝即位を勧めた180人の中に、「鮮卑大都督慕容廆」の名があります。その甲斐あって、彼は太興四年(321)十二月「持節都督幽平州東夷諸軍事平州牧封遼東郡公」に任じられました。

「幽州と平州(河北省、遼寧省)の諸軍事を司る遼東郡公」という称号です。「公」の爵位は「王」に次ぎ「候」の上、しかも「持節」(天子から下された刀=節刀を持つ者)の意ですから、大義名分が与えられたわけでした。

慕容廆はその後「車騎将軍」を追加され、333年に65歳で死するや「大将軍開府儀同三司襄公」が諡されました。軍事政権=幕府を開く資格が与えられたことになります。これを受けて、その子・慕容皝(Mùróng Huǎng)は「燕」王を自称します。

高句麗國が咸康二年(336)と建元元年(344)に遣使したのは、隣接する「燕」国への対抗策でした。旧帯方郡の地を支配する大義名分として、爵位を求めたと思われますが、記録は残っていません。

むしろ後発の百済国が先に爵位を得たのは皮肉な話でした。

咸安二年(372)、百済は「鎭東將軍領樂浪太守百済王」、次いで太元十一年(386)には「使持節都督鎭東將軍百濟王」の爵位を手に入れます。慕容廆の「持節」は「天子から下された刀を持つ」の意、それとよく似ていますが百済王の「使持節」は「天子の使者としての章を持つ」の意です。

華夏帝国への朝貢は、北東アジア世界のパワーゲームに変質したのです。