(105)鎮東将軍・辰斯王の死

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辰斯王(韓国歴史ドラマ「広開土太王」)

4世紀の初頭、華夏の勢力が黄河流域以北から消滅しました。それは秦帝国以来、500年以上にわたる東アジア世界の秩序ないしパワーバランスが崩壊したことを意味しました。

それに伴って建業(現在の南京市)に都を置いた晋(東晋)王朝は、北東アジア地域――朝鮮半島の基部(咸鏡、遼寧、遼東)から朝鮮半島、日本列島――の施策を大きく転換させます。東夷諸族の長に官爵を与え、代理統治させることにしたのです。

天子、中原、九畿、藩屏、朝貢という中華思想の建前を維持しつつ、しかし中華思想を貫けば家畜並みに扱うべき蛮夷の族を内臣に取り立てたのは、豊臣秀吉や徳川家康が野盗海賊の輩を旗本に取り込んだのとよく似ています。ただ、晋が採用した現地族長による代理統治は形式上のことであって、事実上、独立を認めたのに等しい点が決定的に異なります。

北東アジア経営の政策転換は、東晋初代・元帝の太興四年(321)、鮮卑族の王である慕容廆を「持節都督幽平州東夷諸軍事平州牧封遼東郡公」に任じたのが始めになりました。また第8代簡文帝の咸安二年(372)には百濟王餘句を「鎭東將軍領樂浪太守」に、次いで第9代孝武帝の太元十一年(386)には百濟王世子餘暉に「使持節都督鎭東將軍百濟王」の官爵を与えています。

高句麗王も第3代成帝の咸康二年(336)、第4代康帝の建元元年(344)に遣使していますが、東晋王朝は官爵を与えていません。慕容氏を幽州、平州、東夷諸軍事の都督に任じてるので、高句麗王が入り込む余地がなかったのです。

半島三国(高句麗、百済、新羅)で唯一晋の官爵を受けた百済の「餘句」王は、『三國史記』でいう第12代近肖古(Geunchogo)王に当たります。その治世二十七年春正月条に「派使入晋朝貢」と見えていて、『晋書』の記事と照応しています。

また386年に官爵を受けた「百濟王世子餘暉」は、第15代辰斯(Jinsa)王ですが、該当する記事は『三國史記』に見えていません。では辰斯王が晋に使者を送ることなく官爵を受けた(挨拶に来ない蛮夷の王に晋王朝が勝手に官爵を授けた)かというとそうではなくて、おそらく辰斯王は「起居」(皇帝の私設秘書官)を通じて王位を継承したことを伝えたのでしょう。

なぜそのように言うかというと、「世子」の2文字があるからです。辰斯王は前年の旧暦十一月に死去した枕流(Chimnyu)王の弟で、正統な世継ぎは枕流王の長男・阿莘王子でした。つまり辰斯王は中継ぎの王として即位したのです。正統な後継者ではありません。晋王朝は非公式ルートでその情報を入手していたからこそ、わざわざ「世子」の文字を入れたのです。

『三國史記』は辰斯王を「為人強勇聡恵多智略」(人となり強勇、聡恵にして恵智略多し)と賛美しています。しかし同書は続けて、その八年(392)、辰斯王は狗原で狩りを行い、10日帰ってこなかった。「十一月薨於狗原行宮」(十一月、狗原の行宮で薨ず)と記します。狩りに行った狗原の仮宮で暗殺されたのではないか、という想像が働きます。