(114)5世紀高句麗は105万人

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光州月桂洞1号墳(韓国光州広域市)

好太王碑文や『三國史記』が示すように、5世紀の東夷世界で高句麗國は最強の軍事国家でした。紀元前の早い時期から華夏帝国を苦しめた匈奴族、その一支族である鮮卑族と苛烈な生存競争を繰り広げてきただけに、歩兵と騎馬隊を連携させる巧みな戦法には、魏・晋の軍兵もタジタジでした。

一般に匈奴族は騎馬民族とされます。なぜ馬に乗るかというと、内蒙古以西の人々は遠くを見通すためでした。草原を移動しつつ家畜を飼育する際、群れから外れた羊やヤギを見つけて群れに戻さなければなりませんし、より豊かな草地や水飲み場を見つけなければなりません。

黒龍江・吉林地方や沿海州の人々は森林に棲息する鳥獣を捕獲するために、より迅速に移動する必要がありました。貂や熊の毛皮はもちろんのこと、鷹や鷲の羽は矢羽として華夏の交易市場で取引されたのです。漢代の東夷諸族の一「貊(貊狛)」族は高句麗族の遠祖とされますが、その由来は今でいう「パンダ(熊猫)」ではないか、とする指摘もあります。

黒龍江・吉林地方にパンダが棲息していたというのは、正直なところ、にわかに信じがたいところです。しかし紀元前10世紀以前は平均気温が現在より4~5℃高かったという推定もあって、一概に否定できません。

それはそれとして、16世紀、趙挺という学者が華夏の古文書を渉猟してまとめた『東史補追』という書物によると、5世紀初頭(好太王時代)の高句麗國の人口は21万0508戸で105万2530人と推定されています。1戸当たり5人という計算です。

105万人の人口が当時の北東アジア世界でどのような位置かというと、華夏帝国(晋)は900万人から1千万人、百済國は80万人、新羅國は60万人と推定されています。もっとも当時は「王の徳を慕って」(実際は「食」を求めて)人々が流動しました。高句麗、百済、新羅は、人口規模では拮抗していたと考えていいでしょう。

重要なのは武力ないし戦闘力です。

平常時、百済、新羅が人口の1%ないし3%が王侯貴族とその奉公人、吏僚、軍兵軍属などの非生産人口だったのに対し、匈奴族や高句麗族は5%ないし10%だったと考えられています。王侯貴族や吏僚の数は極端に増減しませんから、差が出るのは軍兵の数です。

好太王・長寿王のときの軍事動員率は1割を超えていたかもしれません。全人口の1~2%が王直属の騎馬隊、それに徴発した5万人ないし8万人が歩兵として従軍したと考えると「歩騎五萬」がまんざら誇張ではないことが分かります。西暦400年、好太王は軍の半分を割いて、半島南半の支配権を確かなものにする乾坤一擲の決戦に打って出たのでした。

一方、当時の倭ないし倭国(全羅南道と筑紫平野)の人口は、邪馬壹国時代が15万戸だったことから推定して、仮に20万戸、1戸5人とすれば100万人です。全羅南道に半分の50万人が住んでいたとすれば、軍兵は2万人が最大だったでしょう。機動力と破壊力を誇る「歩騎五萬」と正面からぶつかったら、とても太刀打ちできるとは思えません。