(116)高句麗と戦った意味は何か

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「スパルタクスの最期」(Hermann Vogel)

わたしたち昭和二十年代生まれの世代が小中高校で学んだ教科書日本史は、

①朝鮮半島の南端に大和朝廷の領地と出先機関があって、大和朝廷はそこを通じて新羅や百済と国交を結んでいた

②大和朝廷は少なくとも4世紀末には九州から関東にいたる広域を支配していた

③3世紀に大和で発生した古墳の独自形式である前方後円墳が全国に広がっていることが証拠である

④三角縁神獣鏡に代表される青銅鏡が大和朝廷から地域の首長に下賜された

⑤高句麗の南下政策に脅威を覚えた新羅と百済は相互に牽制しつつ大国である大和朝廷に救援を求めた

⑥大和朝廷は半島南端の領地と出先機関を守るためにも高句麗と戦う必要があった

というものです。

大和朝廷の領地は「任那」、出先機関「任那日本府」と呼ばれていた。だから4世紀には、大和朝廷は「日本」と名乗っていたのだ、というのです。その一々を検証するには紙幅が足りませんが、前節からのつながりで言うと、教科書日本史の所論に抜け落ちているのは、「倭ないし倭国にとって、高句麗國と戦う意味は何だったか」です。

高句麗の圧力に直面していたのは新羅と百済です。西暦392年、新羅第17代の奈勿王は王族を實聖王子(第18代新羅王)を人質に出して好太王に恭順を誓い、百済は同年末、倭國て通じている阿莘王を第16代国王に推戴して対高句麗戦略を強化しました。

この2國は領土を北方に広げる野心を持っていたわけではありません。阻止したかったのは高句麗の軍兵が北方の集落を襲って穀物を奪い、住民を殺戮し、生き残った農民を捕虜として連れ帰ってしまうことでした。捕虜になった農民は奴隷として使役され、あるいは交易市場で売買されました。

実際、東扶餘族(高句麗、百済と同族)は慕容燕國に支配され、その人々が華夏の商人や農家に奴隷として売ら、永和二年(346)、扶餘の玄王が慕容燕國に降伏した際、部族5万人が捕虜として連行されたことが『晉書』に記録されています。カーク・ダグラス主演の歴史大作『スパルタカス』ほどではなかったかもしれませんが、北東アジア世界にも少なからぬ奴隷が存在していたのです。

直接の脅威に晒されていないにもかかわらず、倭ないし倭国が高句麗と抜き差しならぬところまで踏み込んだ理由を考えると、利権を守るためだったのではないか、ということが浮かんできます。「韓、濊、倭が競って取った」という鉄の利権が高句麗の南進にかかわるとは思えないし……と可能性を消し込んでいくと、残るのは港湾と交易市場の支配権だったかもしれないことに思い至ります。

『三國史記』も好太王碑文も、『日本書紀』も一切伝えていませんが、おそらく高句麗は、国力を増大させる過程で海洋交易が重要だということを認識したのではないかと思います。倭人を支配下に置いてより多くの利益を得ようとした高句麗の抑圧的な姿勢に、倭人の王が叛旗を翻したということではないかと思います。