(120)『晉書』に見える「東倭」とは

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真多呂人形「東宮立雛セット」

『宋書』の「高祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」は、421年に劉裕が帝位に就いたことを慶賀する使節団を送ってきた、というものです。この記事について、あまり論じられていないのは「倭讃」と「賜除授」(除授を賜う)です。

遣使の主は「倭讃」とあって、「國」でも「王」でもありません。「倭」姓の「讃」という者、という扱いです。「讃」は「王」として扱われないまま亡くなり、弟の「珍」に代替わりして初めて「國王」になりました。

邪馬壹国の卑彌呼の場合、『三國志』は「倭國女王俾彌呼遣使奉獻」(魏書少帝紀)、「倭女王」「親魏倭王卑彌呼」(倭人伝)と、最初から「國」「王」と記しています。

次の時代の『晉書』は「東倭重譯納貢」(宣帝紀)、「泰始初遣使重譯入貢」(四夷伝倭人条)、「倭人來獻方物」(世祖武帝紀)、「高句麗倭國及西南夷銅頭大師並獻方物」(安帝紀)で、最後の遣使にだけ「國」が付いています。

『晉書』の「東倭」遣使は正始元年春正月、西暦240年の出来事で、『倭人伝」は帯方郡太守の弓遵が建中校尉梯儁等を倭国ないし邪馬壹国に派遣したことを伝えています。帯方郡の使者が倭地に出向いているときに、倭地からの使者が次期皇帝をねらう最有力者のもとに朝貢するということは、尋常ではありません。この「東倭」は卑弥呼の倭国ではない可能性が出てきます。

晋帝国は帝位に就いていなかった司馬懿(宣帝は晋朝初代武帝:司馬炎による追号)に朝貢した「東倭」を正統と認めたのではないかと思われます。「重譯」は「通訳を重ねて」と解されていますが、おそらく「こまごました事情の説明」という意味でしょう。

また安帝紀義熙九年(413)の「高句麗倭國」については、「高句麗と倭國」の並記ではなく、「高句麗が倭國を連れて」の意味かもしれない、という指摘があります。その場合の「倭國」は『三國志』魏書がいう邪馬壹國を盟主とする倭人邑國連合ということになって、倭国が高句麗に降伏していたことが推測されるのです。

前置きが長くなりましたが、本節のテーマは

――宋の永初二年に朝貢した「倭讃」はどういう位置付けになるか。

です。

位置付けとは、つまり倭讃は『三國志』の「倭人」の王か、『晉書』の「東倭」の王か、ということです。そのためには「東倭」とは何か、を考えなければなりません。

そこで「東倭」の「東」は方位(東西南北)か、分家の意かです。

『晉書』が扱っているのは西晋(256~316)と東晋(317~420)ですので、同書内でいう「東倭」の「東」は、本家から王統を受け継いだ分家の意味、というのが納得できるところです。

ただしそれは、『晉書』が編纂された西暦645年の時点からさかのぼった表現でしょう。衰えたとはいえ邪馬壹國連合は「親魏倭王」ないし「親晉倭王」の印綬を保有していました。正始元年、泰始初の時点で「東倭」は王統を継承していなかった。つまり「東倭」の「東」は、皇太子の異称「東宮」と同じです。