(124)倭讃は國王と認められていない

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『宋書』列伝五十七

『宋書』に戻ります。

『宋書』は「倭讃」について最後まで「倭國王」と認めていません。「可賜除叙」とあるので、晋帝国が与えた叙位を除かれたことは分かります。しかし宋帝国としてどのような叙爵を行ったのか、『宋書』は伝えていません。

元嘉2年(425)、倭讃は司馬曹達という使者を立てて「表」を奉じました。「表」というのは「臣下が君主に奉る書」の一種で、「陳請」(請を陳べる)ものとされています。思うところを正直に述べ、請願する文書が「表」なので、表を奉る行為が「上表」と呼ばれ、「表明」「表意」といった熟語が派生しました。

倭讃が何を「陳請」したかというと、宋帝国の認証です。しかし晋帝室司馬氏の末裔を起用した「陳請」も認められませんでした。倭讃の跡を継いだ倭珍は「使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」を自称し、「表求除正」(表して除正することを求)めました。

倭珍の「陳請」がいつ行われたのが夷蛮伝倭國条は明記していません。『宋書』の帝紀を参照すると、おそらく元嘉十五年(438)の出来事です。倭陳は2度目の上表で「安東將軍倭國王」に叙されました。倭讃の初入貢から17年、上表から13年を要しています。自称した「使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事」は認められず、自称「安東将軍」は一段下の「安東将軍」になっています。

倭の五王のうち、最後の「武」も昇明二年(478)の五月、順帝に「表」を奉っていいます。その内容は『宋書』に記録されていて、「先祖代々、帝のために自ら戦線の臨んで周辺異族を平らげてきたけれど、高句麗がいつも邪魔をしてきます。願わくば開府義同三司の資格を与えていただければ、より一層の忠節に励むでありましょう」というものでした。

これに対して、宋朝は武王に「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍倭王」の叙爵を行いました。前代の「興」は「安東將軍倭國王」、2代前の「済」は「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍」ですから、大将軍に昇格した「武」王は5人のうちで最高位に就いたことになります。

百済王の叙爵を見ると、義熙十二年(416) に第17代腆支王(在位405~420)を「使持節都督百濟諸軍事鎮東將軍百濟王」に叙し、第18代久尓辛王(420~427)、第19代毘有王(42 7~455)にも同じ称号を許しています。第20第義慈王が高句麗軍に殺害された475年まで、征東将軍(高句麗)、鎮東将軍(百済)、安東将軍(倭)が鼎立していたわけでした。

そのうち倭國王は倭國のほか、百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓の諸軍事(支配権)を認めるよう求めています。秦韓は「魏志韓伝」にいう「辰韓」で5世紀当時の新羅、慕韓が「馬韓」で任那・加羅と同じだとすると、倭国王は200年前からの支配権を主張したのです。

宋朝は元嘉二十八年(451)、倭國「済」王に対して、すでに叙任(公認)している百済王を除く加叙を行いました。「半島の南部はもともと倭人の地(倭地)だった」という倭國王の主張を認めたからには、倭国側から何かしら証拠となるものが示されたのでしょう。