(125)倭人は不動産に興味なし

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フェニキア人の船(模型)

「倭の五王」はヤマト王権の王ではなく、朝鮮半島・栄山江流域と筑紫平野をテリトリーとした「倭國」の王とするのが合理的です。その上で想像を逞しくすると、次のような展開が想定されます。想像と推測ですから、根拠レスであることを前もって断っておきます。

例えば本稿では、「倭讃」が宋帝国に初めて入貢したころ、関門海峡から東側は江戸幕藩体制以前の「國」単位で地域の王がいた、と推測しています。そして次節で語ることになりますが、高倭戦争を機に、倭讃は王城を高句麗から遠く離れた安全地帯に移します。そのとき国神系氏族が重要な役割を果たしたのでしょう。ですがこれも根拠レスです。

筑紫平野を本貫とする物部、海神宗像三島に縁が深い阿曇(安曇/安積/安住)、ヤマトに対置する出雲、そこから派生した穂積、諏訪、熊野といった諸氏族こそ、東アジアの海洋を舞台に交易で政情を左右した「倭人」の中核であり「倭國」の主体だったでしょう。

「倭の五王」が伊都國の王統を受け継ぐ者だったかどうか、血縁上の関係はともあれ、正統であることを主張する根拠は持っていたかもしれません。それは例えば沖津鏡や八握剣など十種の神宝です。それを奉斎して東方に伸張し、行き着いたところ、すなわち河内の日下に邑國を築いたのが、ニギハヤヒの降臨伝承というわけです。

この推測の弱点は、前方後円墳です。

久留米市の御塚・権現塚古墳(2墳1体で命名)のうち権現塚古墳は前方後円墳の初期形態とされる帆立貝型ですが、福岡平野ではありません。どうせなら栄山江流域にあった「倭國」が、王城を一気に河内に移したとしたほうが、外連味がない推理かもそれません。

そして巨大な墳墓を築くために、朝鮮半島(主に新羅國)の人々を掠奪して送り込んだのかもしれません。それは『三國史記』新羅本紀における倭寇記事が根拠です。

5世紀に行われた新羅國に対する倭寇は、實聖王(在位402~417)3回、訥祇王(418~458)3回、慈悲王(458~479)5回、炤知王(479~500)4回の計15回に及んでいます。平均すると6年ないし7年おきに倭寇の記事が記載されるわけですが、報告されなかった事件を勘案すれば、もっと頻繁に起こっていたと推測されます。

海浜の集落を襲って住人を掠奪するのは、労働力が有力な商材だったからにほかなりません。『後漢書』では倭国王帥升らが生口(捕虜、奴隷)160人、「倭人伝」では卑彌呼女王は生口10人、壹與女王は30人をそれぞれ献じています。「倭國」は倭人の海賊行為を黙認していたのでしょう。

あえて強弁すれば、古代地中海をテリトリーにしたフェニキア人も、カルタゴ(チュニジア)やティルス(レバノン)を除くと目立った遺跡を残していません。しかしハンニバル(Hannibal Barca: 紀元前247~ 紀元前183または182)がローマ帝国に攻め入ったのは史実です。

あるいは北海を部隊にしたヴァイキングが残したものは巨大な墳墓と祭祀場、巨大な木造船といったあたりですが、欧州の歴史を動かしました。交易民の倭人が関心を持ったのは「利」で、不動産には興味がなかったように思えます。