(126)高句麗の支配から脱けた証

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鴨緑江(Wipedia)

高倭戦争をオサライしておきます。

庚子年(400)の第1次高倭戦争の発端は、百済が倭と通好したことでした。「誓約を破ったではないか」と好太王が怒って百済討伐の軍を興したとき、金城を倭の軍兵が占拠したという新羅の急使が到着します。そこで好太王は急遽、「歩騎五萬」の軍を金城奪回に向かわせました。

高句麗軍は倭軍を追撃して任那加羅に到達しました。加羅の安羅國は好太王に帰順し、扈城に満ちていた倭の軍兵は潰えたけれど、そうこうしている間に金城の守備に置いてきた安羅の兵が寝返って城を占拠した――というのが好太王碑文が記す高倭戦争の概略です。

戦いはこれで終わらず、倭は高句麗の北に接している後燕と連携して好太王を挟撃する作戦だったことが分かっています。西暦404年、好太王が鴨緑江岸で後燕軍と対峙していた隙を突いて、倭が平壌付近まで侵入したのです。この第2次高倭戦争も高句麗の勝利でしたが、大規模な遠征で疲弊した高句麗は、これ以後、周辺諸国と融和外交に転じることになりました。

倭の目線で見ると、後燕(鮮卑族慕容氏)を巻き込んだ対高句麗戦略を立案・遂行した知恵者が倭陣営にいたことになります。そこまでして倭が高句麗に戦いを仕掛けたのは、華夏(宋帝国)との交易利権を死守しようとしたのだと想像されます。

どういうことかというと、東晋が失っていた山東半島を宋が奪回したためでした。317年から420年までの約100年間、高句麗が華夏の帝国に使者を送るには、黄海を南下し東シナ海を横断して長江の河口付近に上陸するほかなかったのです。無寄港で不可能なので、百済や倭とコトを構えるわけにはいきません。

ところが宋は山東半島の支配を回復しました。現代の地図でいえば、遼東半島の大連から真南、山東半島の煙台まで約100kmで、高句麗は宋と往来することができるようになったのです。

扶余族はもともと北東アジアの遊牧民ですので海洋の乗り切る技術は疎かったと思われますが、鴨緑江上流にコロニーを形成していた漁労交易の民(広義の倭人)を使役すれば、自力で宋と交易することが可能です。

『晉書』安帝紀義熙九年(413)の「高句麗倭國及西南夷銅頭大師並獻方物」は、高句麗が高倭戦争の捕虜倭人を引き連れて朝貢し、自力航海が可能なことを誇示したのでしょう。宋からも「征東将軍高句麗王」の叙爵を得て、交易権を安堵されたことは疑いを得ません。

425年、倭讃が「表」を奉じて「陳請」したのは、宋の公認(叙爵)と交易権の復活だったことになります。実態はともあれ、413年の高句麗の朝貢で、華夏の吏僚は「倭は高句麗に臣従した」と認識していました。ところが倭讃の死後、元嘉七年の倭珍による「表求除正」で、倭が高句麗の影響下から脱したことを確認できたので、倭珍を「安東大將軍倭國王」に叙爵したと考えられます。

では宋の吏僚は、何をもって倭が高句麗の影響下から脱したと判断したのでしょうか。ここまでも想像と推測でしたから、ここから先も想像と推測を重ねると、倭讃は高句麗の圧力を避けるため、勇断をもって王城を対馬海峡の南側に移したのではないか、ということです。