(128)決め手は「都督」の2文字

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北魏皇帝の墓(中国新聞網、2014年3月)

わたしたち日本人は、「謎の4世紀」を埋める好太王碑文の「倭以辛卯年來渡海」に目を奪われてしまいます。教科書日本史通りだと、奈良県から慶尚北道の慶州まで、さらには北朝鮮の平壌まで攻め込んだのですから、皇国日本派ならずとも、オリンピックのように「ガンバレニッポン!」と日の丸を振りたくなってしまいます。

しかし、出発したのは全羅南道の海岸で、そこから船で金城に接近し、内通していた安羅人の守備兵が内側から城門を開いた、というのが実際のところだと思います。夜陰に紛れた奇襲攻撃と言ってよく、つまり新羅の正規軍と戦って城を攻略できるほどの兵力ではなかったと考えるべきでしょう。だからこそ倭軍は高句麗軍が到来したら金城を捨てて、地の利がある任那加羅で戦おうとしたのです。

高倭戦争は勝ち負けナシだったと思いますが、倭は高句麗軍の凄まじい機動力と破壊力を目の当たりにして震え上がったことは間違いありません。王城を対馬海峡の向こう側に、さらに瀬戸内海の東端に移さざるを得なかったほど、高句麗軍は恐ろしかったのです。

結果として、それは正しい判断でした。

好太王の跡を継いだ高句麗第20代長寿王は、ただちに華夏(晋)と修好し、424年新羅、425年北魏(鮮卑族拓跋氏)と融和外交を展開して国力の回復を図ります。倭が全羅南道から王城を移していなかったら、後背の脅威である北魏と通好したあと、長寿王は倭寇討伐の軍を興していたかもしれません。

倭の王城が朝鮮半島の南部から対馬海峡の対岸(筑紫平野)に遷移したことを示すのは、元嘉二十八年(451)、3人目の倭王済が宋の代第3代太祖(文帝)から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号されていることです。

431年に倭珍が「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称して叙正されることを求めましたが、認められたのは「安東将軍」の称号だけでした。

一方、高句麗は晋の義熙九年(413)、好太王が「使持節都督営州諸軍事征東将軍」に叙任されています。征東将軍と安東将軍ではどちらが格上かが議論になりますが、ここでたいせつなのは「都督」の2文字です。

「都督」というのは三國・魏が置いた軍政区の長官のことで、都督府を開くことができました。軍政区の長官ですから、都督が2人いるはずはありません。

つまり倭は、431年の時点では高句麗王が都督の軍政区内にいると宋の吏僚は認識していた(倭珍が自称したのは、すでに域外にいたからでしょう)けれど、451年の時点ではその外にいることを理解した、ということです。

『書紀』はオホササギ大王五十八年のこととして「冬十月吳國高麗國並朝貢」と記しています。ヒロニワ大王(欽明)を起点とする二倍暦補正でオホササギ大王五十八年は西暦410年、『書紀』の崩年干支「己亥」に従えば445年(いずれも目安に過ぎませんが)、吳國(江南の華夏の国=宋帝国)と高麗國の使者の来訪が併記されています。倭國の新しい王城を確認しに来たのに違いありません。