(129)馬と鉄の甲冑が戦いを一変

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5世紀後半の馬(東大阪市日下遺跡)

西暦400年の庚子高倭戦争ないし404年の帯方界会戦で体力を消耗した倭國は、対馬海峡の向こう側に軸足を移し始めました。431年の時点で宋が「倭はまだ高句麗都督の内にいる」と判断したのは、例えば全羅南道光州のあたりに倭王の王城があったからかもしれません。

また451年の時点では「高句麗都督の外に出た」と理解したのは、宋王朝の使者が倭國王の王城に出向いて確認したからでしょう。『書紀』の所伝を二倍暦で補正した試算に従えば、その使者は445年、ヲアサヅマワクゴ大王の治世13年目に倭国を訪問し、治世19年目に「都督」に叙任したことになります。

6年間の空白が生じたのは何故なのかと考えたとき、現地を視察した使者がその合否を判断したわけではないことに気がつきます。使者の報告書をもとに宋の吏僚が「倭國王を都督とする軍区を新たに設定する」と内定して、倭国から改めて「上表」「陳請」があったら承認する段取りだったとすれば、理屈(理屈のための理屈ではありますが)は通ります。

ホムダワケ大王(応神)は父親が不明(神話の場合、父親が分からないのは聖者の徴とされます)、母親が「神」諡号を持つオキナガタラシ(1926年:大正十五年「皇統譜令」まで第15代天皇とされていました)ですので、多分に伝承上の人物です。実体は第16代オホササギ(仁徳)に違いありません。

倭国が王城を移すに当たって、九州、中国、四国、畿内の豪族(王)たちは腕をこまねいて眺めていたのか、という疑問が生じます。鉄製の武器(剣、鏃)が普及した弥生中・後期に、周囲に壕を備えた高地性環濠集落と、多くの殺傷(受傷)人骨が出土する埋葬遺跡が発生しています。

ところが古墳時代前期に相当する殺傷人骨遺跡は発見されていないようです。あちこちで大規模な激しい戦闘が行われた形跡は確認されません。ただし『書紀』が伝える日本武尊(『古事記』では倭建命)が『宋書』倭武王の写しだとすると、中部・東海、関東、さらに九州南半に倭国の軍兵が遠征したことになります。

注目すべきなのは、この時期になると馬の埋葬骨が出土することです。東大阪市の日下貝塚から発見された馬の全身骨は、放射性炭素C1 4測定で5世紀中ごろに埋葬されたことが分かっています。12歳前後のオスで、体高は12 5~130cmの蒙古馬と鑑定されているとのことです。

馬の全身骨は熊本市西区の上代町遺跡、群馬県渋川市の金井下新田遺跡などでも確認されていますし、河内地方で発見されている馬の骨は30体(頭)以上に及びます。馬具や馬の埴輪を挙げるるまでもなく、馬が戦闘の状況を一変させたことは明らかでしょう。

倭國は高句麗軍との戦いから、馬を投入すると機動力が飛躍的に増すことを学んだのでした。また鉄製の甲冑が受傷の程度を格段に低減することも学びました。陣形も戦法も、5世紀初頭にあっては最新のものでした。

加えて馬と我が身に黄金の装身具を身に着けることが、いかに相手を威圧するかを知ったのでしょう。

もちろん3世紀中・後半から、物部一族をはじめとする国津神系海神族が、その下地を固めていったのに違いありません。三輪の王権も吉備の王権も本籍は物部一族で、つまり縁戚だったとすれば、大きな戦いが起きなかったのは理解できるところです。