(132)武王の王統は最初から畿内にいたのか

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『失われた九州王朝』(古田武彦著:1973年)

『書紀』記載の王名から、「讃」「珍」「済」「興」「武」あるいは「禰」「隋」に類似する音や意味を読み取って、「倭の五王」は誰か比定するのはあまり意味がありません。『書紀』の王名は7世紀後半に作成されたからです。

もちろん伝承の呼称を参照したでしょうが、ストーリーの辻褄を合わせるために1人の2人にしたり複数の人物の伝承を統合したでしょう。政治的な思惑を込めたとも考えられます。それに王命表は当人の死後に付けられた諡号であって、生前の呼称や実名ではありません。実名は「諱(忌名)」ですから、記録に残ったかどうか疑わしいのです。

高句麗の好太王の華夏名は「高談」でした。好太王は死後に付けられた諡号で、生前の名乗りは「談徳」だったとされています。「高句麗國の談徳」なので「高談」というわけです。もう一つ「安」という名前も伝わっていて、どちらかというと「安」のほうが実名に近いかもしれません。

長寿王は華夏名「高連」「璉」、生前の名乗りは「巨連」、百済の蓋鹵王は華夏名「餘慶」、名乗りは「慶司」です。王の名に「談」「連」「慶」があっても不自然ではありません。華夏風の1字名を付けたのは華夏の王朝ですから、高句麗や百済の事情より漢字の意味を考えたほうがいいように思えてきます。

すると「讃」は「褒め称える」、「珍」は「貴重な/大切な」、「済」は「為す/渡る」、「興」は「興す」、「武」は「勇ましい/猛々しい」という意味が見えてきます。好太王と対等に渡り合ったから「よくやった」、だから「讃」だとすると、「珍」は華夏宮廷人にとってよほど貴重な方物(名産品)――例えば瑪瑙、翡翠、真珠など――を貢物にしたのか、「済」は海を渡ったからなのか等々、想像が逞しくなってきます。

本論ではこれまでのところ、「倭の五王」について難波王朝を前提として考察してきました。ですが、奈良盆地や河内の王権とは縁のない王統、と仮定すれば『書紀』の王名は役に立ちませんし、比定作業そのものが無駄になります。古くは「熊襲僭称」説、最近では古田武彦氏が唱えた「九州王朝」説がその代表です。

気になるのは、昇明二年(478)に倭王武が奉じた表にある「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」( 祖禰昔より躬を甲冑に擐き、山川を跋渉し遑寧(休息)する處あらず。東に毛人五十五國を征し、西に衆夷六十六國を服す。渡りて海の北九十五國を平らぐ)の文言です。

「祖禰」は「祖先」の意味なのか「祖の禰という王」なのかは、ここでは問いません。

筑紫平野を中心にすると、「渡平海北」は対馬海峡の向こう側ですので実際の地理と合致します。ですが「西服衆夷」の問題が出てきます。筑紫平野の西は肥前と有明海、東シナ海で、そこに66もの邑國があったとは思われません。

『書紀』との合致点を模索するなら、倭王武が東の限りは尾張、駿河、信濃、越中あたりまで、西は筑紫、肥前あたりまでが倭國と認識していた、ということでしょう。つまり、まず「東征毛人」、次に「西服衆夷」、最近では「渡平海北」という時間的な経過を示したとも理解できます。

となると、倭王武は奈良盆地(幅広に構えて近畿地方)に王城を構えていた王統の王ということになります。好太王碑文や『三國史記』との齟齬をどう納めればいいのか、あるいは『書紀』との整合を探る必要はないのか——が次のテーマです。