(134)百済ルートしかなかったのか

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「武の上表」:『宋書』蛮夷伝倭國

宋の昇明二年(478)、倭王武が順帝に奉じた意思表明(いわゆる「武の上表」)の全文を『宋書』がそっくり載せているのは、華夏の知識人や吏僚からしてもなかなかの名文だったためでしょう。倭讃が司馬曹達(姓「司馬」名「曹達」か、司馬=軍令官の姓「曹」名「達」か不明)という華夏人を使者に起用したことと併せ、倭讃王統の外交は完全に華夏の流儀をマスターしていたものと見えます。

その中で最も気になるのは、いかに自分が高句麗を恨めしく思っているか、そのためにどれほど自分の祖先たちが苦労したかを述べている件(くだり)です。別の言い方をすると、まさにそこが上表の主旨に相当します。

まず武王は「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋涉山川 不遑寧處 東征毛人五十五國 西服眾夷六十六國 渡平海北九十五國」と語ります。この部分の意味合いは前節で触れました。

これに続けて、武王は「王道融泰 廓土遐畿 累葉朝宗 不愆于歲」とたたみかけます。王道に従って畿(華夏皇帝の領土)からはるかに離れた僻地まで開き、代々律義に朝貢してきた、と忠義ぶりを訴えています。

そこでこれまでの経緯として、「臣雖下愚 忝胤先緒 驅率所統 歸崇天極 道遥百濟 裝治船舫」――先祖から王統を継ぎ、百済を経て船を繰り出したところ、「而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不」――高句麗は横暴で掠奪の限りを尽くし、進路を妨害するので帝に貢することがままならない、と言っています。

「百済」を「様ざま(百)な航路(済=渡)」と解する見立てもあるようですが、ここでは素直に百済王國のこととしておきます。百済を経て船を出すのだが高句麗が邪魔をしている、ということは、倭讃王統は山東半島経由で建業(宋の帝都)に使者を送っていたことになります。

黄海を横断する山東半島ルートがダメなら、東シナ海を横断する五島列島―舟山諸島ルート、琉球弧―釣魚島―福建ルートもあったでしょう。それこそ倭人が得意とする航路だったはずです。そのルートを使っていないなら、倭讃王統(倭人)は海洋交易民でなくなっていたか、黒潮グループの関係が切れていた(ないし敵対関係にあった)かです。

この次に重大な事実が出てきます。それは由々しきことと言ってもいい内容です。

臣亡考濟 實忿寇讎 壅塞天路 控弦百萬 義聲感激 方欲大擧 奄喪父兄 使垂成之 功不獲――私の亡孝(亡き父)済は高句麗を討とうとしたが、「奄喪父兄」(にわかに父兄を喪)い、動きがとれないままこんにちに至っている、というのです。

倭王済の父と兄が突然亡くなった、というのは、いったいどういうことでしょうか。

『宋書』は倭讃と倭珍が兄と弟だと記録しています。讃と済、珍と済の関係は分かりません。済の兄が王位に就かなかったので記録されなかったのかとも思えますが、いずれにせよ王と王子がともに亡くなったとなれば大事件です。

『書紀』は、そのような事件に類する記事は一切載せていません。イザホワケ(履中)、ミズハワケ(反正)の2代の在位年数が異常に短いのは、そこに作為が潜んでいるのでしょうか。何があったのか、興味は尽きません。