(140)草香の織姫が女王になった事情

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機織りの梭(ACTIVE JAPAN機織り体験)

「倭の五王」から「難波王朝」の話に移って回数を重ねています。先に進みたい気持ちがあるのですが、折角ですので難波王朝の王位継承についての話を続けます。

王位継承にまるわる謀略と暗闘は、第19代ヲアサヅマワクゴのスクネ(雄朝津間稚子宿禰)大王の死後にも起こりました。太子のキナシのカル(木梨軽)王が弟のアナホ(穴穂:第20代安康)に滅ぼされたのです。

事件の概要の前に、雄朝津間稚子宿禰大王についてです(以下、『書紀』の記述をどう解釈するかを書くのですが、それが事実だと言っているわけではないことに留意してください)。

住吉仲王事件のとき、瑞歯別王(第18代反正)は登場しています。雄朝津間稚子宿禰王が登場していないのは幼少だったから、というのが一般的な解釈です。ところが『書紀』には「我之不天久離篤疾不能步行」とあって、歩くことがままならない持病があった、と述べています。身体に障害があったのです。

そのために王位継承の資格を失い、後世の皇族規定に沿って言えば皇籍を離れて宿禰(軍令官:将軍)になっていたのだと思われます。また諡号の「朝津間」は現在の米原付近のことで、琵琶湖の水運を支配する要衝を指しています。つまり王は大王位継承権を放棄し、琵琶湖の北辺に隠遁していたのでしょう。

それでも群臣から大王になってほしいと頼まれて、王は「我兄二天皇愚我而輕之群卿共所知」――二人の兄が私をバカにして軽んじていたことはみんな(群卿)知っているでしょう?」と言っています。

このとき妃の忍坂のオホナカツ(忍坂大中)姫が雄朝津間王に「大王になりなさい」と勧めたとされています。また雄朝津間王は即位8年目から和泉の茅渟宮(大阪府泉佐野市上之郷)に居を移し、王城と政治の運営は忍坂大中姫が担っています。

『書紀』によると、忍坂大中姫の父はホムダ(誉田)大王の第5王子ワカヌケフタマタ(稚野毛二派)王、母はヤマトタケル(日本武)王の曽孫オトヒメマワカ(弟日売真若)王女となっています。稚野毛二派王も弟日売真若王女も、第26代大王になるオホド(男大迹:継体)に王統をつなげるために設定された架空の人物です。

また「忍坂」は奈良県桜井市忍坂のこと、「大中姫」は「中継ぎの女王」のことなので、実体を伴っていません。 このことは「忍坂大中姫」が存在しなかったことを意味しません。雄朝津間王は形式的な大王で、実際は女王が統治していたのではないか、という推測を可能にします。

そのような目線で同時期の王族を眺めると、誉田大王の息女で第17代去来穂別大王の后となったクサカのハタビ(草香幡梭)女王が浮上してきます。

草香幡梭の「草香」は物部一族の本貫地である日下、「幡梭」は機織りの横糸を通す梭(シャトル)のことなので、総じて「日下の織姫」というわけです。身体に障害がある大王を推戴した物部氏が、外戚として政治をほしいままにしたのかもしれません。

また草香幡梭姫は第21代大泊瀬のワカタケル(幼武)大王の后としても登場しています。『書紀』の系図が混乱しているのか、女王の時代が続いていたのか、さてどちらでしょう。