(143)稲荷山古墳の「獲加多支鹵」

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稲荷山古墳の礫郭(埼玉県行田市)

『宋書』に「倭王武」が登場するのは順帝の昇明二年(478)です。一方、『書紀』をもとにして作成した二倍暦適用の補正在位年表によると、ワカタケル(幼武:雄略)は457年に即位し479年に死去しています。

この年紀は第29代ヒロニワ(広庭:欽明)大王の即位年539年から逆算したものです。ただヒロニワ王の即位年の60年前がワカタケル王の没年なので、『書紀』編者が年紀を操作している可能性がないとはいえません。

ともあれワカタケル王の在位期間はギリギリで『宋書』の「倭王武」と重なるのですが、大明六年(462)三月条には「倭國王世子興爲安東將軍」とあって、両書は合致していません。『書紀』は辻褄が合う年紀に「幼武」王を設定したのか、という疑いが湧いてきます。

一方、動かしがたい記録として、さきたま古墳群(埼玉県行田市)の稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣の銘文があります。昭和四十三年(1968)に出土していたのですが、その10年後、防腐処置をするための搬送中に、一部の錆が落ちて金象嵌が発見されました。そこでX線で検査したところ、115文字が隠れていたというわけです。

(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

(裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

銘文発見直後は表と裏の漢字が重なっていて判読が難しかったのですが、現在は次のように読み下すのが定説になっています。

(表)辛亥の年七月中記すヲワケの臣上祖名はオホヒコ其の児タカリのスクネ其の児名はテヨカリワケ其の児名はタカヒシワケ其の児名はタサキワケ其の児名はハテヒ

(裏)其の児名はカサヒヨ其の児名はヲワケの臣世々杖刀人の首と為り奉事し来り今に至る獲加多支鹵大王の寺斯鬼宮に在る時吾天下を左治し此の百練の利刀を作らしめ吾が奉事の根原を記す也

この銘文をどう位置付けるかは、「辛亥年」、「獲加多支鹵大王」の解釈にかかっています。 古墳時代中期(5世紀後半~6世紀初頭)の辛亥年は西暦471年と531の計2回です。

鉄剣が発見された礫郭の土砂を分析したところ、榛名山の噴火礫が混在していたのですが、時期に榛名山系の二ツ岳が大規模な爆発的噴火をしたと推定されていて、辛亥年を確定するには至っていません。

「獲加多支鹵大王」については、「ワカタケル」と読んで『書紀』のワカタケル(幼武)王と結びつける案が有力です。しかし「若々しく勇敢な王」というありふれた美称なので、ただちに幼武王とするわけにはいかない、という慎重論も根強いようです。

そこで次に「斯鬼宮」が注目されるのですが、『書紀』はワカタケル王の宮を「泊瀬朝倉宮」(桜井市)としていて、シキ(磯城)ではありません。それよりもさきたま古墳群から南40kmのところにシキ(志木)という地名があるので、ますますややこしくなってきます。