(144)「武」は特別な意味の諡号

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日本武尊の像(静岡県日本平)

『書紀』には「タケル」の名を持つ王が2人登場しています。タケヒムカ(武日向)やタケハニヤス(武埴安)、タケヒロクニ(武廣國)などのように、美称としての「武」ではありません。1人は本稿のテーマ「ワカタケル」(幼武)、もう1人は「ヤマトタケル」(日本武)です。

ワカタケルは5世紀、ヤマトタケルは4世紀に活躍したと思われる人物です。前者は実在、後者は架空です。『宋書』に「倭王武」が登場しているので、『書紀』はそれに相応する大王として「武」を設定し、上表文「自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處」に相応する大将軍として「武」を用意した、というのが本稿の見立てです。

余談めくのですが、『古事記』は「武」でなく「健」の文字を使っています。『書紀』の「幼武」は「若健」、「日本武」は「倭健」、「武埴安」は「健波邇安」です。『書紀』の「日本武」が『古事記』では「倭健」となっているのは、もとは「倭健」だったのを『書紀』が「倭」を「日本」に書き換えたとき、「健」を「武」に置き換えたことを示しています。

では、『書紀』は何ゆえに「健」を「武」に置き換えたか、です。1つは『宋書』に「倭王武」が登場していることを知ったからです。もう1つは、華夏の歴史書や宮廷文書から、英雄的な王に「武」の文字を当てることを学んだのではないかと思います。

7世紀中ごろまでに、華夏で「武」の諡を持っていた皇帝は、

 (1)前漢の孝武帝(在位:前141~前87)

 (2)後漢の光武帝(後25~57)

 (3)魏の武帝(曹操への追諡)

 (4)西晋の武帝(265~289)

 (5)成漢の武帝(304~334)

 (6)後趙の武帝(334~349) 

 (7)宋の武帝(420~422)

 (8)斉の武帝(482~493)

 (9)梁の武帝(502~549)

 (10)陳の武帝(557~559)

 (11)北周の武帝(560~578)

の11人です。

王で最も有名なのは周の武王(前1023?~前1021?)です。

そのほかに楚の武王(前740~前690)、秦の武王(前311~前307)、後漢時代の魏王に封じられた曹操が「武王」を名乗っていました。ですから曹操は「魏王武」でもあったのです。

華夏周辺の異族を見回すと、五胡十六国のうち前涼の武王(301~314)、南涼の武王(397~399)、百済の武王(600~641)が知られます。

「武」の諡が与えられるのは、武力で国土を広げたり、戦乱を平定した王に送られるのが華夏のルールでした。百済の武王は実の名を「餘章」といいましたが、「帯方郡王百済王」に叙任されたとき「武」を名乗りました。いちど滅びた百済王国を復興したことから、「武」の名乗りが許されたのです。

華夏の柵封を受けている以上、倭も華夏のルールの中で諡を付していたはずです。つまり「倭王武」は華夏が名付けたか、名乗りを許したかのどちらかです。

ここで宋順帝の昇明二年(478)の記事を確認すると、上表文のあとに「詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」の記事が続いています。要点は叙爵の内容ではなく「詔除武」の3文字です。「武」の名乗りも「詔除」の内なのです。

宋の朝廷は上表文「自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處」を認め、倭王に「武」の諡を与えたのではないでしょうか。