(147)8世紀の国家観に騙されるな

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大垣船町川湊(るるぶ&more)

 前節の続き。

 ワカタケルに至る歴代が『宋書』の朝貢・叙爵記事と合致しないとか、稲荷山古墳出土鉄剣の銘文にある「斯鬼宮」が『書紀』の所伝と違うといった問題は残っています。また「九州王朝」説は魅力的な所論です。それでもワカタケルのときに「倭國」の原型ができた(できていた)と考えるのは、前後の状況を踏まえた「総合的な判断」です。

 繰り返しになりますが、倭讃が朝鮮半島から筑紫平野に王城を移したことによって、高句麗という顧後の憂を断ち切り、倭珍が元嘉十五年(432)の朝貢で宋帝国から「都督」に任じられたことが大きな要因でした。筑紫が本拠地だったのは、『書紀』が筑紫征伐を載せていないことで明らかです。

 ワカタケル(治世は457~479年)の話柄から50年ほど後、火の君磐井が反乱を起こしたときのエピソードが大きなヒントです。オホド(男大迹:継体)大王が物部麁鹿火に斧鉞を授けて「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」(長門より以東は朕これを制す。筑紫より以西は汝これを制せよ)と言ったのは、磐井が「筑紫以西」を支配していた、ということでしょう。

 反乱を起こすに当たって筑紫にあったヤマト王権の出先機関(例えば太宰府の前身のような機関)を焼き討ちしたかもしれませんし、ひょっとするとそれはヤマト王統の本家だったかもしれません。磐井がヤマト王権の本家または同族と思えないのは、その尊称が「火の君」だからです。

 「火」が阿蘇山に由来するなら、本稿のような推測と想像、妄想で多少の無理を承知で突き進む「論」にあっては、邪馬壹国の卑彌呼、狗奴國の卑彌弓呼も同族だったとするのは、少しもおかしなことではありません。また、伊都國=「ヰ」姓の王統を受け継ぐ物部一族の者が反乱鎮圧に向かうのは当然のことでしょう。

 オホド大王の言葉は、「磐井を討って本家を復興したら(麁鹿火が本家を継いだら)、筑紫以西は元のように物部一族が統治せよ」という意味だろうと思います。そういう推理に立てば、九州王朝説は成り立つのかもしれません。

 同様に『隋書』によれば、隋王朝から「俀」國に派遣された文林郎裴世清は「竹斯國又東至秦王國」を経て「俀」國の王城に向かっています。阿蘇山の話はさておき、その「秦王國」は「其人同於華夏以爲夷州疑」(その人は華夏と同じくして以って夷州を疑う)とあります。「秦王國」は周防(山口県)と解され、ここにもヤマト王権とは異なる王国が存在していたわけでした。

 これを列島全体に敷衍すると、東北から北関東、北陸、東海・中部、出雲と小王国が分立していたと考えるのが順当です。『書紀』が描くのは律令制度が目指した天皇を頂点とする中央集権の理想像であって、ワカタケルの時代が統一国家だったというのは、『書紀』編者の妄想を追体験しているに過ぎません。

 緩やかであれ、分立する在地小国を連携させたのは、ワカタケルの大きな事績といっていいと思います。泊瀬という交易拠点に王城を構えたのは、海と川を結ぶ交易の利益を最大化する術があったことを物語ります。

 そのためには軍事力を背景に、土木や精錬、工芸の技術も必要でした。巨大な墳墓はその総合力を示すものにほかならず、権威そのものだったのです。