(149)誉田紀の倭國造と2人の満致

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「養徳」歩道橋(京都市左京区)

 山処もしくは山門の音は、奈良盆地の方言だと「ヤト」(ya-m-to)に近く、筑紫の方言だと「マ」音が強かったのではないか、というのが「養徳」からの推測です。

 どういうことかというと、

 ①白村江会戦(663)の敗北を機にヤマト王権は対外的な名乗りを「日本」に変えた

 ②それに伴って「倭」は奈良盆地の呼称に格下げされた

 ③王城があるところなので「大倭」とし、王宮人はヤマトと読んでいたが、「倭國造」をはじめとする奈良盆地の人々は違和感(抵抗)を示した

 ④橘諸兄は天平九年(738)、妥協案として地元の音に合わせて「養徳」と表記した

 ⑤しかしそれだと筑紫山門の音「耶麻騰」ではないという批判が起こった  ⑤そこで10年後、改めて圭字である「和」を当てて「大和」を「耶麻騰」と読ませるようにした

 ――こんなところではないでしょうか。

 これが意味しているのは、ヤマトの音を持ってきたのは5世紀に成立した難波王朝だった、ということです。また難波王朝のコアとなったのは筑紫から河内湖の南岸に移動した武力集団で、その人数は多数ではなかったことが分かります。

 相対的に多数だった奈良盆地の人々は、以後200年近く、筑紫の発音を受容しなかったことになります。テレビやネットを通じて言葉の平準化が進んでいる現在でも、方言が根強く残っていいます。まして言葉が共同体の標だった時代ですから、ムベなるかなです。

 このことは現在の天理市から桜井市にかけての一帯を支配した倭國造の祖・倭吾子籠がホムダ(誉田:応神)の没後に初めて登場していること、そのときの話柄が倭の屯田と屯倉の所有権をめぐる争いだったことからも分かります。

 倭吾子籠は出雲系氏族や海神族とのかかわりが深いことから、三輪王朝の王族だったのかもしれません。また、屯田と屯倉の所有権争いというのは、王位継承有資格者が排除された三輪王朝の財産を倭國造が引き継いだことを意味しているように思えます。

 もう一つワカタケルの王城(王宮)が奈良盆地に所在したことを物語るのは、高句麗の長寿王によって百済王国が滅びたとき(475年)のこと、「南」に逃れた将軍・木刕満致が蘇我満致の名で奈良盆地の豪族として姿を見せている、という指摘があることです。

 『書紀』はホムダ大王の廿五年、「百濟直支王薨卽子久爾辛立爲王 王年幼木滿致執國政」と記しています。百濟の直支王(『三國史記』百済本紀では「腆支王」)が亡くなったのは西暦420年です。『三國史記』の木刕満致とは55年以上の時差があって、直支王の死後に国政をほしいままにした木滿致と木刕満致は同名異人、とする見方が強いようです。

 これに続けて『書紀』は、「與王母相婬多行無禮 天皇聞而召之」――満致が王母と密通など無礼が多かったのでホムダ大王は満致を召し出した、という記事を載せています。また『書紀』は、「蘇我」(蘇我韓子宿禰)の名がワカタケル王九年(465)に初出し、その父親が「蘇我満致」であると記しています。

 木滿致とは木刕満致が同名異人かはさておき、木滿致と蘇我満致の関係はどうなのでしょうか。年代的には重なるように思われるのですが。