(153)幻の「大和朝廷統一国家」論

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東大寺 昭和の大修理竣工式(清水建設)

 ヤマト王統は第21代ワカタケル(幼武)王のとき、関東地方から筑紫地方までをカバーする王権を築いていた――というのは、教科書日本史も世の中の所論もおおむね一致しています。ただ王権の強度ないし組織基盤の質をどう見るか、意見が分かれるところです。

 明治維新から第2次世界大戦までの皇国主義的史観では、ヤマト王統は初代神武天皇から万世一系で、最初から「大和朝廷」が全国を統治(支配)していた、としていたようです。ですが現在は、非科学的、非論理的な主張と断定して構いません。

 日本史における比較対象の好例は、150 0年代の群雄割拠、いわゆる「戦国時代」です。「乱世如麻」と形容される時代ですが、形式上とはいえ、天皇の下に摂政・関白、足利将軍家がいて、全国の守護・地頭を統治している図式でした。武田信玄、上杉謙信、毛利元就といった戦国大名の多くは守護・地頭制度の保護者たらんとしたのであって、変革者ではありませんでした。

 話が逸れたので元に戻すと、室町の足利将軍家は、全国の武家大名を統治していたわけではありません。細川、斯波、大内、畠山、日野、高、仁木、伊勢といった将軍家執事が「共立」していた武家の王に過ぎませんでしたし、箱根以東は鎌倉公方と関東管領の支配に任せていました。1500年代、この列島は実質的な統治者が不在だったのです。

 ここで「統治」とは何か、を考える必要があります。21世紀の日本国に暮らしているわたしたちは、日本国憲法が定める基本原則と、憲法に立脚した各種法制度による法治を承知しています。特定の誰かの意思で法制度が運用されたり、国民の財産が恣意的に使用・蓄財されることは、許されていないことも理解しています。

 しかしそれは歴史の積み上げがあるからであって、例えば度量衡が均一でないと他者と価値を共有することができません。また名前の付け方や暦が標準化されないと、行き違いが発生してしまいます。つまり「統治」とは、生活の基礎となる様々な決まりごとを標準化、規格化することです。

 もう一つは税と労役です。律令制度が目指したのは、全国(というか支配下にある地域)の住民から一律の貢を徴取することでした。国司は定額の年俸で従事する中央官僚であって、地域の豪族(國造や県主など)はその下の郡司に組み込まれていきました。租庸調が定められ、健児、防人という名の兵役制度が設けられました。その頂点に天皇がいたからこそ、東大寺が建立できたのです。

 大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)をはじめとする巨大墳墓を、東大寺に匹敵する国家プロジェクト級の大工事と位置付け、西暦4世紀末から5世紀初頭に中央集権的統一国家が成立していたとする指摘があります。築造に動員された人数を考えると確かにそのように思えますが、既述したように敗戦の将兵や掠奪してきた農漁民を役務に従事させたと考えるのが自然です。

 ワカタケル王のときでさえ、播磨に明石國がありました。毛野、尾張、越、吉備、出雲、筑紫といった地域に自立した王国があって、交易の利を最大化する共通の目的でヤマト王統を共立していたと考えるべきでしょう。