(176)「磐井の乱」をどう見るか

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岩戸山古墳の石像群(Bulletin Archive)

 6世紀前半の倭地に起こったもう一つの大事件は、いわゆる「磐井の乱」です。『書紀』はオホド(男大迹)紀廿一年夏六月条に筑紫國造磐井の挙兵を記し、翌廿二年冬十一月条に磐井の斬殺と乱の鎮圧、その息子・葛子の降伏を伝えています。「掩據火豐二國」という大規模な反乱でした。

 この連載に興味を持つ方なら、「磐井の乱」の顛末は周知のことでしょう。確認のためにWikipediaを引用すると、「527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)がはばみ、翌52 8年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争」です。

 磐井の墓は福岡県八女市にある岩戸山古墳とされています。福岡県内最大の前方後円墳で、丘上に在りし日の「朝廷」の姿を再現した石人石馬が配置されていることで知られます(現在置かれているのはレプリカ)。ちなみに「朝廷」は、王宮の庭先で開かれる群臣との朝食会のこと。朝食を取りながら政治課題を議論したり判決を下したのが「朝廷」の由来です。

 このことから磐井の本拠は筑後川流域(筑後平野)だったように思われますが、『書紀』に「筑紫國造」、『筑後國風土記』も「筑紫君」とあるからには、起居は朝鮮半島の窓口である筑紫平野に置かれていたに違いありません。

 『書紀』は、新羅が磐井に賄賂を送って、ヤマト王権軍が対馬海峡を渡るのを阻止させた、と主張しています。なぜヤマト王権軍が朝鮮半島に渡ろうとしたかというと、『書紀』がヤマト王権の支配地だったと主張する任那を新羅が侵略したからでした。つまり磐井は新羅の手先として、いいように利用されたことになります。

 それだと磐井は私欲が強く、短絡で思慮が浅いただの乱暴者ということになるのですが、それは『書紀』編者が磐井を貶めるための潤色に過ぎません。少なくとも九州北半を支配していた王であれば、奈良盆地の王権より海峡を挟んだ一衣帯水の朝鮮半島南部の情勢に敏感だったでしょう。中長期的な利害得失を計算した上での挙兵だったはずです。

 これについて、越國のオホド王がヤマト王権の大王に迎え入れられたことに、「だったらオレだって」と思ったから、という見立てがあります。挙兵するなら「なぜオレじゃないのか」だと思います。裏を返せば「なんでアイツなんだ」です。自分の方が適任(正統)だぞ、の主張があったのでしょう。

 そこで、磐井の王統が倭王統の本家本元で、ヤマト王権はその分家だったのではないか、という見方があります。華夏の正史に登場する倭国は磐井の王統、すなわち九州王朝のことで、このときヤマト王権が本家を滅ぼしたのだ、という仮説です。『筑後國風土記』に「雄大迹の天皇の世に(中略)俄にして官軍動發りて」とあるのがその根拠です。

 筑紫國にヤマト軍が奇襲をかけて王を斬殺したというのです。反乱を起こしたのはヤマト王権であって、『舊唐書』東夷伝倭国条の「日本舊小國併倭國之地」(日本は舊小國、倭國の地を併せたり)と付合するようです。