(177)経済構造の変化ないし相違

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朝妻津(Wikipediaから)

 本家の筑紫王家が分家筋のヤマト王家の奇襲を受け、磐井王が斬殺され、後嗣の葛子は服従を誓わざるを得なかった。以後、筑紫王家はヤマト王家の傀儡として外交の窓口を果たすことになった。それが527~28年の政変ではないか、というのは一定の説得力を持っています。

 ここで6世紀オホド王のヤマト王権を「分家筋」と表現したのは、筑紫王家から見たら本当の分家ではないからです。分家である難波王家を禅定で継承した播磨王家、越王家はその播磨王家の群臣に向かえられたので、形式上は難波王家の王統を継いだことになっています。

 『書紀』は難波王家、播磨王家の伝承と、筑紫王家の対外活動や外交で獲得した評価を組み合わせて、ヤマト王統の歴代大王を創作したと言っていいかもしれません。オホササギ(仁徳)もワカタケル(雄略)も架空の存在で、「磐井の乱」そのものがなかったとい見て、『書紀』の伝承をバラバラに分解・再構築する必要があるように思います。

 とはいえ、ヤマト王家が本家の筑紫王家に奇襲をかけ、外交上の傀儡にしたという大枠は変わらないでしょう。また、「オホド王はホムダ大王5世の孫」という出自は、『書紀』編者が苦し紛れに考え出した辻褄合わせに違いありません。

 近江國高嶋郷に生まれたというのが事実とすれば、彼の背後にいたのは近江に盤踞していた息長一族という構図が見えてきます。息長氏は製鉄と鍛治の技術を持っていた氏族と考えられていて、鞴(ふいご)が空気を送る様子から「息長」の名が生まれたとされています。あるいは潜水して魚介類を獲る暮らしなので、息が長くなったという人もいます。

 本拠地は琵琶湖畔の朝妻(米原市)で、天野川が琵琶湖に注ぎ込むあたりに川湊(津)がありました。北に向かえば若狭・越國、東に向かえば関ヶ原を経て美濃・尾張という交通の要衝です。第19代大王オアサヅマ(雄朝津間稚子宿禰:允恭)は、息長氏そのものといっていいようです。

 製鉄・鍛治の技術集団を配下に抱えていたと同時に、北の日本海と西の瀬戸内海を結ぶ水運が経済基盤でした。その点で物部氏や安曇氏、諏訪氏などと共存関係にありました。広義の海洋交易民、つまり倭人の一部族です。吉備や河内に分家ないし活動拠点があったことが知られていて、オホド王が河内國樟葉宮(くすばのみや)で即位したのは、一家が息長氏の保護下にあったことを示しています。

 オホド王は奈良盆地在郷の群臣に共立されたわけですから、経済基盤は水稲耕作を中心とする農業にありました。別の言い方をすると、王権の財政基盤です。農民から税として農産物や工芸品を徴収し、その余剰をもって金属器や雑器を贖うという暮らしです。生産資源である土地と農民を多く持つものが富者とされ、権力を握りました。

 これに対して筑紫王家は海洋交易が財政基盤ですので、大事なのは港や倉庫など物流拠点のほか、自給自足の米・野菜を生産する土地があればいい、という認識です。ヤマト王家は自分たちの意のままに動く交易・物流集団を配下に組み入れたかったのです。