(178)日本天皇及皇子倶崩薨の理解

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装飾壁画古墳の分布状況

 『書紀』は磐井の乱のエリアを「掩據火豐二國」と記しています。なぜ筑紫(竹斯)が反乱のエリアに入っていないのかというと、そもそも筑紫が磐井王の本拠だからでしょう。磐井王に呼応して兵を挙げたのが「火豐二國」の在郷氏族だったという意味に読み取れます。

 実際、佐賀、熊本にかけて有明海沿岸を支配した「火君」が磐井に協力して兵を起こしています。その名は熊本県八代郡を流れる氷川に残っていますし、阿蘇の火口に由来するともいわれます。邪馬壹國の女王卑弥呼、狗奴國の王卑弥弓呼も「ヒ」(卑/火)姓の王族ととらえることができるでしょう。

 それと有明海沿岸に確認される装飾壁画古墳、朝鮮半島全羅南道栄山川流域の九州系横穴式前方後円墳の主体者とのかかわりが無視できません。6世紀前半まで、筑紫地方と有明海沿岸地域の政治勢力は、朝鮮半島の勢力と密接かつ濃厚な、同族と言っていい関係にあったのです。

 本稿は、いわゆる「磐井の乱」そのものがなかったと考えています。気になるのは、『書紀』が引用する「百濟本記」(現履が存在しないので『書紀』引用部分が逸文となります)の大歳辛亥(531年)三月条にある「高麗弑其王安又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」(高麗、王の安を弑す。また日本天皇および太子、皇子ともに崩薨すと聞く)の記事です。

 『三國史記』は高句麗國の安王(安臧王:高興安)が亡くなったのは531年の5月としています。ただし『三國史記』高句麗本紀は、「王薨」とだけ記していて、「弑其王安」に類する情報は確認されません。一方、『書紀』記載の崩年干支を二倍歴を適用して補正した歴代大王在位年表によると、ヲホド王(継体)の没年は辛亥年(531)なので、「百済本記」の「日本天皇」はオホド王のことと考えられています。

 ところが『梁書』は安王の没年を普通七年(526)としています。『梁書』のほうが信憑性が高いのに教科書日本史が『三國史記』の531年説を採用するのは、安王のころ倭王権の大王はオホド王のほかにいない、という先入観があるためでしょう。

 その先入観があるために、教科書日本史は「天皇太子皇子倶崩薨」の文言の前に立ちすくんでしまいます。オホド王の長男である第27代マガリ王(勾またの名を金日:安閑)も、次男の第28代タカタ王(高田またの名を盾:宣化)もオホド王と同時期に亡くなっていません。理解不能のため判断保留、思考停止に陥ってしまうのです。

 あるいは「継体天皇の崩御とその後の皇位継承を巡り争いが発生したという仮定」を立て、「辛亥の変」を唱える研究者もいるようです。これに対して、「百済本記」は高句麗・安王死没と戊申の政変(528)の情報がごっちゃになっているのではないか、と考えると、なんとなく見通しが開けます。

 安王が亡くなったのは526年、その2年後に倭国の王と太子が「倶崩薨」した。その倭国王を「百済本紀」はオホド王と理解したので、『梁書』の記事と矛盾することになった、という推測です。辛亥の変は越王家と大和王家の並立という角度から語られるべきかもしれません。