(182)一定しないオホド大王の没年

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雷丘(奈良県明日香村)

 第25代ワカササギ大王(小泊瀬稚鷦鷯:武烈)の「絶無繼嗣」で播磨王家が絶えたのが西暦506年の12月、群臣が協議して越の三国から「枝孫」(分家の分家)のオホド王(男大迹:継体)を第26代大王に迎えたのが507年の1月――というのが、『書紀』崩年干支からの推定です。これが事実だとすれば、ワカササギ大王の死は想定外の出来事だったことになります。

 しかしそのことを云々しても、「ワカササギ大王は架空」説が出た瞬間に意味を失います。そして論点は、オケ王(弘計/来目:顕宗)が亡くなった498年から、オホド王が大和に入った526年まで、ヤマト王統はどういう状況だったのか、に移って行きます。

 ここで想起されるのは、『萬葉集』巻第3第235首、柿本人麻呂をして「皇者神二四座者」(オホキミは神にしませば)と謳わせたオホアマ大王(大海人:天武)のあとのことです。

 直系・正室・年長男児を正統とする儒教思想が浸透していたにもかかわらず(あるいは、だからこそ)、690年から724年までの34年間、第41代サララ(鸕野讚良:持統)、第43代アヘ(阿部:元明)、第44代ヒダカ(日高:元正)と女王が続きました。

 『書紀』の記述から推測される非公式な王統譜は、およそ次のようです。すなわちワカタケル(幼武:雄略)のあと、先天的な免疫不全で外出がままならなかったシラカ(白髪:清寧)王を、ワカタケルの妃・ハタヒ(草香幡梭)と娘のカスガ(春日)がサポートし、葛城氏系のイイトヨ(飯豊)ないしオウミ(青海)の女王が統治したというものです。

 一方、『書紀』は507年オホド王が河内国樟葉(伝承地は枚方市楠葉丘交野神社付近)で即位→治世5年(511)起居を山背國筒城(京都府京田辺市同志社大学京田辺キャンパス内)に移動→治世12年(518)山背國弟國(長岡京市乙訓寺付近)に移動→治世20年(526)大和國磐余玉穂(奈良県桜井市池之内付近)と記します。

 教科書日本史は「奈良の磐余に入るのに20年もかかったのはなぜか」を論じます。奈良盆地の在郷氏族の同意を得ることができなかったから、というのが結論のようですが、なぜ5年から8年で起居を移したのか、ということを考えると別の答えが見えてきます。

 いや、オホド王権は大和の王権(ヤマト王権における2朝)と並立していた、という点では一緒かもしれません。ただ両者の間は緊張関係にあって、オホド王の陣営は一気に決戦に持ち込むほど強力な軍事力は持っていなかったということが推測されるのです。木津川口から奈良盆地をうかがったものの、大和王権のバリアを突破できず、反撃を受けて小椋池の北岸、長岡まで後退したのでしょう。

 『書紀』はオホド大王の没年を「廿五年歲次辛亥」と西暦531年としていますが、「或本云」として「廿八年歲次甲寅」すなわち534年説も並記しています。また『古事記』は「丁未年四月九日崩」と記し、527年説を採用しています。オホド王の没年は一定しません。

 ――あれこれ考えるに、『百済本記』は辛亥年のこととして「高麗弑其王安 又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」と云っているから、531年が正しいのだろう。

 と『書紀』の編者は言っています。ではオホド王と倶(同時・一緒)に亡くなった太子、皇子は誰なのか、そんな大事件を記録しなかったのは何故なのか、高麗安王の没年は526年なのだが……と、謎は深まるばかりです。