(196)金仇亥王は倭にとどまったか

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伝仇衡王墓陵(KOREA Trip Tips)

 任那が倭人の邑國連合か倭國の分国ないし植民地だったのか等々は別として、百済の王と話し合ったヤマト王権の王はヒロニワ王がおそらく初めてだろうと思います。ヒロニワ王の孫に当たる厩戸王(いわゆる聖徳太子)も多国語に通じていたようで、ヒロニワ政権を境にヤマト王族の言語能力が飛躍的に高まっています。

 もう一つ、ヒロニワ政権の特徴は国際情勢にどう対応すべきか、ヤマト王権内に意見の対立が際立つようになる、ということです。政権中枢は百済支援と任那復興に前のめりですが、大伴氏や物部氏など旧守勢力は及び腰です。

 それを踏まえると、『書紀』オホド王治世23年(529)夏四月条に、「壬午朔戊子任那王己能末多干岐來朝」とある記事が注目されます。己能末多王は大伴金村に、「今新羅違元所賜封限 數越境以來侵 請奏天皇救助臣国」(いま新羅は封限賜うた元の所と違いてしばしば越境し侵し来る。天皇に臣の国を救助されんことを奏するを請う)と告げています。

 なぜ任那王がヒロニワ王でなく大伴金村に窮状を訴えた(と『書紀』編者が設定した)のかといえば、百済・任那問題の失敗をすべて大伴金村に負わせる意図があってのことでしょう。このあたりは蘇我氏や中臣氏(藤原氏)の修正史観が入っているようです。

 「己能末多」は万葉仮名で「コノマタ」の音でしょう。「干岐」(カンキ)は「王」を意味する任那地方の方言です。ちなみに「王」を意味する言葉は、高句麗が「於羅瑕」(オリコケ)、新羅が「麻立干」(マラハン)、百済は「鞬吉支」(コンキシ)です。倭は「キミ」ですが、古くは「ヒコ」だったかもしれません。

 529年に窮状を訴えた任那の王は、金官加羅國の仇衝王に他なりません。『三国史記』の王暦第一「駕洛國」によると、仇衝王は実名を「金仇亥」といい、金官加羅國第9代鉗知王の子で辛丑年に13歳で立太子されたとあります。辛丑年は西暦521年に当たります。

 金仇亥が「己能末多」と表記されたのは、前者は漢風(ないし当時の北東アジア国際での名乗り)、後者は身内だけで通じる名前(本名)でしょう。「己能」の意味は不明ですが、「末多」は『書紀』の百済・東城王「末多」、『三國史記』の「牟大」に通じます。古代百済語で「長」「初」の意味なので、金官加羅國の金王家も百済系だったのでしょう。

 立太子年から逆算すると、金仇亥王が生まれたのは509年で、ヤマトのヒロニワ大王と同い年です。越王家とヤマト王家の並立(ヒロニワ王532年即位)説に立つと、金官加羅國の滅亡と同期していることから、実は金仇亥王は倭国に亡命したのだ、とする見立てがあります。

 亡命するためではなく、救援を求めにやってきて、状況を見ているうち、住み着くことになった、ということかもしれません。ただ『書紀』は「是月遣使送己能末多干岐」と記していますし、韓国・慶尚南道山清郡には石積みの伝仇衡王墓陵が残っています。ですが倭にとどまったことを否定する根拠はありません。

 ヒロニワ王=金仇亥王と仮定すると、蘇我稲目と安倍大麻呂が側近となった理由が合点できるところです。蘇我氏が反大伴派の氏族を糾合して金仇亥を擁立した、という考えはなかなか魅力的です。