(197)手に負えない多重の歴史修正

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「三国遺事」梵魚寺本(東亜日報)

 『書紀』は「任那王己能末多干岐」がオホド王23年旧暦4月にやってきて、任那の窮状を訴えてすぐ帰ったとしています。救援を求めて国王が直にやってくるのも異常ですし、大伴金村に

 「……と天皇さまにお伝えください。ヨロシク」

 と告げたというのも変な話です。

 ですがとにかく王は任那に帰って行ったことになっています。

 一方、『三國史記』新羅本紀の法興王(募泰:在位514~540)十九年条に、「金官國主金仇亥……來降」の記事が見えています。この金仇亥が金官加羅國第10代仇衡王とされているので、己能末多干岐は仇衡王のこと、という三段論法が成り立っています。そして仇衡王の墳墓と伝えられる石積墓が、韓国慶尚南道山清郡に残っています。

 「金仇亥=ヒロニワ大王」説は成り立ちにくいのですが、お墓は確定的な所在証明にはなりません。また1280年代に撰述されたと考えられる『三國遺事』には、仇衡王と金仇亥は兄と弟の関係で、532年に仇衡王が金仇亥に王位を譲り、金仇亥が新羅に投降したと読める記述があって、仇衡王は行方が知れません。仇衡王と金仇亥が別人とすると、今度は「仇衡王=ヒロニワ王」説が浮上してきます。

 このようにこの国ないし倭國の古代史に「かもしれない」が横行するのは、『書紀』の記述が物語的・情緒的・主観的なことに依っています。華夏の史書や地誌は、五行思想や神仙思想などを除けば年次、人名、地名、出来事の経緯などがかなり客観的に記述されています。『三國史記』は親新羅の記述が目立つものの、華夏の史料を参照して年紀の整合性を取っています。ところが『書紀』は全く違います。

 『書紀』について、

 ――現存するわが国最古の史書である。

 と言われます。

 「現存する」が付くのは、『書紀』カシキヤ女王廿八年(620)条に「是歲皇太子嶋大臣共議之錄天皇記及國記臣連伴造國造百八十部幷公民等本記」(是の歳、皇太子と嶋大臣、共に議りて、「天皇記」及び「國記」「臣連伴造國造百八十部幷公民等本記」を録す)とあって、正史編纂プロジェクトがあったことを記しているためです。

 「嶋大臣」が蘇我馬子の異称であることから、620年の史書編纂事業は「蘇我国史」と呼ばれます。蘇我氏の全盛期なので、蘇我氏にとって都合がいいように歴史を修正したのだろう、と言われるのですが、それなら『書紀』も同様で、つまり『書紀』は「中臣(藤原)国史」です。

 おまけに、「蘇我国史」も「中臣(藤原)国史」もヘンテコリンなミニ中華思想を軸に編集しています。華夏に朝貢して臣下の礼を尽くしたとか、◯◯◯◯の叙爵を受けたとかは一切記述していませんし、自分たちの国が「中国」で、自分たちこそ「真人」だと主張しています。

 様ざまな痕跡から、三輪王家→難波王家(栄山江王家)→播磨王家→越王家→倭・済連合の遷移を読み取ることができるにせよ、王統譜は書き換えられていますし、物部、平群、葛城、大伴といった有力諸氏族の事績は改竄されています。二重、三重、場合によっては四重、五重の歴史修正が事実をオブラートに包んでいます。これだからこの国の古代史は手に負えません。