(199)ちゃんと「王国」と書いてある

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阿蘇山(LINEトラベル)

 俀王の姓はアモ/アボ(本稿は「アベ」説)、字(名)はタリシホコ、号はアハキミというところからスタートしなければなりません。

 『隋書』東夷伝「俀國」条によると、王は男性で「阿輩雞彌」と呼ばれ、「妻號雞彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利」(妻は雞彌と号し後宮に六七百人の女有り、太子を名付けて利歌彌多弗利と為す)とあります。男王なので妻がいて、後宮に大勢の女性が仕えているのは自然です。

 「阿輩雞彌」の音は「アハキミ=オホキミ」、「雞彌」はキミと見ていいと思います。「利歌彌多弗利」は、R/L音で始まる倭古語が成り立たないことから、漢籍の要約本である『翰苑』にある「和歌彌多弗利」の表記が正しいと考えることができます。ワカミタフリとすれば、長屋王家木簡の「若翁」(ワカンドホリ)、つまり若者の古語とも理解できます。

 極めて限られた情報ですが、磐井王の跡継ぎである葛子王は「筑紫君」と呼ばれています。「君」の音はキミで、ヤマト王統のヒコ、ヒメ、ミコ、ミコトではありません。これも「俀國」がヤマト王権ないしヤマト王統のことではない傍証となるでしょう。

 『隋書』を素直に読めば、「秦王國」に阿毎多利思北孤の王宮(都)が置かれていたことが分かります。「王国」と書いてありますし、道里は秦王國で終わっっています。対馬、壱岐、筑紫:九州島、秦王國:山口県が「俀國」です。

 ここでいう「秦」は「華夏」の意味にほかなりません。「其人同於華夏以爲夷州疑不能明也」(其の人華夏に同じ。以って夷州と爲すも、疑うらくは明らかにする能わざる也)としています。何をもって「同於華夏」と判断したのかは書いていませんが、他の例を参照すると言語と肉体的形質でしょう。

 長年にわたる華夏帝国や半島諸国との通交によって、文字や単語、発音が輸入され、おそらく倭王武のころには華夏の吏僚と通訳なしで会話できたのだと推測されます。邪馬壹国が「重訳」(訳を重ね)だったのとは大違いです。

 もう一つ決定的なのは「有阿蘇山」の文言です。倭人の「アソ」の音に「阿蘇」の文字を当てたのなら、「阿蘇」の名付け親は隋の使人ですし、漢字を使いこなしていた倭人が「阿蘇」と書いて渡したのかもしれません。最近話題のビジネスとレジャーを合体した「ブレジャー」で、裴世清の一行は阿蘇山見物を楽しんだのでしょうか。

 a-s地名は浅間、阿曽、麻生などがあって、火山と縁が深いようです。アイヌ古語「火を噴く山」、ポリネシア・マリオ族の「ATO」に由来するともいわれています。ともあれ「阿蘇山」があるのは九州島にほかなりません。

 「俀=倭の誤字」説に立つ教科書日本史は、『書紀』が何らかの手違いで、開皇二十年(600)の「俀王……遣使詣闕」を書き落としていると弁解しています。だって、大業三年(607)の遣隋使はカシキヤ女王(推古)十五年秋七月条に、ちゃんと「大禮小野臣妹子遣於大唐以鞍作福利爲通事」(大礼小野妹子を大唐に遣わす。鞍作福利を以って通事と為す)とあるじゃないか、というのです。

 ところが『隋書』には、「沙門數十人來」とあります。『書紀』にはそんなことは一言も記録されていません。百済の使節団に新羅の使者が同行したように、俀國の使節団に小野妹子が便乗したのに違いありません。