(200:END)歴史修正の要因は天武朝の事情

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釈迦三尊像(法隆寺)

 この連載は今回でENDにするので、ちょっと(というかかなり)端折ります。

 隋の遣俀使・裴世清は「秦王國」まで行って、俀國で男王「阿毎多利思北孤」と会った、と言っています。そこで、『書紀』の編者たちは俀王に相当する人物を作り上げます。すなわちウマヤド(厩戸)王、いわゆる聖徳太子です。

 いやそれは、第31代大王トヨヒ(橘豊日:用明)の次男の存在を否定するものではありません。その王を第33代大王カシキヤ(炊屋:推古)の摂政ということにして、「阿毎多利思北孤」の事績を重ねた、という見立てです。

 蘇我馬子が実権を握っているのに摂政を置いた理由を、『書紀』は十分に説明していません。また、冠位十二階や十七条憲法は史実性があるのに、空を飛んだとか聖人の生まれ変わりだとか、ウマヤド王のエピソードはどうも嘘っぽく聞こえます。蘇我馬子と厩戸の「馬」つながりも創作の匂いがプンプンします。

 『書紀』が摂政ウマヤド王を創作したのは、裴世清が訪れたのは大和のヤマト王権でなければならなかったからです。それは8世紀初頭のヤマト王統の政治的正統性を担保するためにほかなりません。

 ずんと時を飛ばすことになりますが、8世紀初頭のヤマト王統は第40代大王オホアマ(大海人/天渟中原瀛真人:天武)の直系です。オホアマ王は周知のように、672年の旧暦7月、第38代大王カツラギ(葛城:天智)直系の第39代大王オホトモ(大友:弘文)を滅ぼして大王位に就きました。干支を取って「壬申の乱」と呼ばれます。

 では、オホアマ王はそれまでどこにいたのでしょうか。

 661年の旧暦1月、筑紫にいたことは間違いありません。百済復興の軍事行動が失敗に終わった663年も筑紫にいました。671年旧暦11月、唐の郭務悰を筑紫で出迎えたのも、おそらくオホアマ王だったと考えられます。

 教科書日本史は、カツラギ王が兄でオホアマ王は弟だったとしていますが、オホアマ王のほうがカツラギ王より4歳年長、という指摘があります。ただしそれは室町時代の応永三十三年(1426)に成立した『本朝皇胤紹運禄』に依拠しているので、疑問符が付いて回ります。

 ともあれ、オホアマ王は誕生年が分かりません。

 また幼名から類推すると、海人族に養育された王のようです。ヤマト王統の王ではなかったのではないか、と疑われても致し方ないところでしょう。

 以下は推測、空想ですが、671年末、オホアマ王は唐が667年11月に設置した「筑紫都督府」の長として、郭務悰が率いてきた2千の軍兵とともに東上(別の言い方をすれば東征)し、ヤマト王権を乗っ取ったのではありますまいか。

 自身が大王に就いている限り、あるいは自身の幕閣が目を光らせている限り、オホアマ王統は盤石ですが、世代交代後のことが懸念されます。そこで旧ヤマト王統からの王権を、正統に引き継いでいることを証明する必要がありました。誰に対して証明して見せたかというと、宗主国である唐帝国に対してです。

 『舊唐書』が「日本舊小國併倭國之地」(日本はもと小國、倭國の地を併せたり)とするのは何を指しているのかを考えてみましょう。すると、6世紀初頭、磐井王のとき「倭」の名乗りを大和王家に奪われた筑紫王家は「日本」と名乗り、7世紀後半に起死回生を果たした、というストーリーが浮かんできます。